日本学士院

PJA ニュースレター No.15

インタビュー 眞鍋淑郎  (聞き手)松野太郎・阿部彩子

 本院の客員である眞鍋淑郎博士が2021年秋にノーベル物理学賞を受賞されました。ノーベル財団が発表した授賞の理由は次の通りです。「地球の気候を物理的にモデル化し、その変動を定量化して、地球温暖化の予測を確かなものにした。」それでは眞鍋博士は当初から地球が温暖化することを予見し、未来への懸念を動機として気候のモデル計算を進めたのでしょうか?この問いとそれへの答えが本インタビューの中核です。今回の聞き手は眞鍋博士の後輩であり、大学院時代を同じ研究室で過ごした松野太郎会員(東京大学名誉教授)、そして眞鍋博士の精神を継承しつつ気候研究に携わる阿部彩子氏(東京大学教授)です。インタビューはZoomを使ったオンライン形式で三度にわたり実施され、森岡優志氏(海洋研究開発機構副主任研究員)および伊藤孝士氏(国立天文台講師。インタビューの構成と本稿の執筆も)の協力を得ました。

インタビュー集合写真

気候モデル作り

松野:眞鍋さんが行われた仕事を端的に言えば、大気・海洋の動的状態を表す大循環モデル(GCM; General Circulation Model)を作り上げ、それを用いて気候に関する様々な数値実験を行ったことです。1956年にはNorman Phillipsが数値天気予報の基礎として定式化された方程式を長期間(30日)積分し、平均することによって、大気大循環の平均的な状態が再現されることを示しました。眞鍋さんは1958年に渡米され、更に本格的なGCMを作るところから研究を開始されました。眞鍋さんが米国海洋大気庁(NOAA)の地球流体力学研究所 (GFDL; Geophysical Fluid Dynamics Laboratory)において実施し、その成果を1964年に出版された放射対流平衡の研究1はノーベル物理学賞の重要な授賞根拠のひとつです。あの頃の研究はどのような形で進められたのでしょうか?

眞鍋:あの頃はGFDL で私の上司だったJoseph Smagorinskyが乾いた大気の大循環モデルを作り、私が放射や湿潤過程や陸面など他の部分のモデルを作って、それを組み合わせました。Phillipsとは異なり、Smagorinskyは流体の運動方程式の本来の形を保つプリミティブ方程式2をモデルに採用したのです。そしてPhillips のモデルで発生していた計算不安定性を回避するために非線形粘性3を導入しました。

松野:非線形粘性ですね。日本ではSmagorinsky粘性とも呼ばれていました。今言われた不安定性が原因し、Phillipsの時代には30日間以上の数値実験が不可能でした。眞鍋さんらは非線型粘性を導入し、より長期に渡る実験を可能にしたのですね。

眞鍋:はい、そうです。

松野:そもそもSmagorinskyは長期の天気予報に必要なGCMの構築を目的として眞鍋さんを日本から招聘したと伺っています。眞鍋さんはまず放射平衡過程のモデル化に集中され、精密なモデルを作られた。鉛直方向を9層に分割しましたよね。それに対して大気力学の研究者達からは「Phillipsの大循環モデルを拡張するためだけに、なぜそこまで放射平衡過程に力を入れるのか?」という批判がありました。あの計算には9層への分割がどうしても必要だったのでしょうか?

眞鍋:はい、9層が必要でした。確かに色々な批判がありましたが僕はそれを気にせず、時には「おまけ」を付けて10 層以上も使いました。

阿部:鉛直方向の放射伝達を計算する際には、大気成分のうち気温に強く影響する水蒸気と二酸化炭素とオゾンを組み込んだのですよね?

眞鍋:はい。しかしそのモデルを使って放射平衡を計算すると、モデル内での地上気温が実際の観測値よりもだいぶ高くなります。現実の大気ならここで対流が生じ、熱が上方へ運ばれるべきでしょう。僕はこの効果を取り入れるため、対流調節4という近似手法を組み込みました。

松野:対流調節も眞鍋さんご自身が考えられた手法なのですか?天文学における恒星の内部構造論にも同様な扱いがありますね。

眞鍋:僕が考案したものです。対流調節は対流圏の上層まで到達する深い湿潤対流(ホットタワー)をモデル化するために開発しました。ホットタワー内には飽和した空気を含む上昇気流がありますが、同様に飽和した下降気流がそれを相殺します。だから、ホットタワー内部の温度分布は湿潤断熱減率を維持する。松野さんの言われる通り、恒星の内部構造論にも似たような扱いがあるかもしれませ ん。

阿部:なるほど、よく分かりました。

松野:それで僕の観察ですが、放射平衡の数値計算を実施された頃から、眞鍋さんは気象というより気候の研究へ積極的に足を踏み入れた。例えば数値モデルに地球上の水循環を取り込み、今や有名なバケツモデル5を考案されたように、です。そのようにして気象の分野に留まらず、より大きな気候システムを再現する数値モデルを作られたわけですが、気候の研究には以前から関心をお持ちだったのですか?

眞鍋:はい、興味はありました。結果的に、工夫をこらしたモデルは上手く動きました。欧州の中期天気予報センター(ECMWF)の人からは未だに「我々の天気予報の期間を伸ばせたのはあなた方の数値モデルのおかげだ」と感謝されますよ。

松野:確かにECMWFが取り組む中長期の予報では水文過程が重要になるから、バケツモデルの出番になりますよね。水文過程を数値モデルに取り組んで気候の研究をするという計画は日本にいる頃からお持ちでしたか?

眞鍋:持ってましたね。

松野:ああ、それで得心したことがひとつある。僕が眞鍋さんと同じ研究室にいた頃、東大理学部の気象学教室には地表のエネルギーバランスや水循環に関する色刷りのきれいな図がソ連のどこかから定期的に届いていて、眞鍋さんはそれをいつも眺めておられた。当時のソ連はシベリアに気象観測所を多く持ち、熱収支や水収支に関する良い観測をしていたようです。眞鍋さんは長い時間を掛けてそういう図表をじっくりと読まれていた。

眞鍋:はい。ソ連から届いた資料を読んで学んだもっとも有用な知識は土壌水分の扱いです。放射と対流のモデル化が終われば、次の問題は陸地をどうモデルに入れるかですから。それで僕が作ったのがバケツモデルなのですが、そこではそういう資料に載っていた科学者Mikhail Ivanovich Budykoの研究にヒントを得たのです。

松野:おお、Budykoだったのですか?

眞鍋:その通りです。米国で気候モデルを作るにあたり、僕は真っ先に水文過程に手を付けました。ワシントンの米国国会図書館に通い詰めて勉強した時期もあります。しかし図書館にある専門文献の説明はどれもややこしく、僕のモデルには使えそうにない。ならばいっそのこと自分で一から考えようと決意し、Budykoの研究にヒントを得て作ったのがバケツモデルです。自分で言うのも何ですが、バケツモデルってのは実に良いアイディアなんですよ。僕は色々な数値モデルを作って来ましたが、これは上手くゆきました。しかし、同じように僕が考案したモデルのうちフラックス調整6などは大変な論議を呼んだ。皆さん最初から疑いの目で見ていて。今になっても未だ僕のやった研究は全部駄目だと言う人もいます。「フラックス調整なんてものを使った眞鍋のやったことは全部がおかしい」と言う人が、たくさんね。日本にも大勢いらっしゃいます。

伊藤:新しいモデルを提唱する時なんて、そんなものですよね。賛同よりも多くの批判を受ける。批判されるのはまだましで、大概は無視される。自分に理解できないものを前にした時、その存在を認められず感情的な非難に走る人はどこにでもいるでしょう。

阿部:うーん、そうかもしれない。フラックス調整の原理や実装法は先生が最近出版された書籍7に詳しく書かれていますね(pp. 192–197)。

眞鍋:そう。読んでみてください。

阿部:ところで眞鍋先生はBudykoと直接の交流もお持ちでしたか?眞鍋先生とBudyko、そして松野先生は環境問題解決への貢献に対してブループラネット賞8を受賞されています。

眞鍋:はい。その頃はSmagorinskyが世界気候研究計画(WCRP)のリーダーで、ソ連とも正式な共同研究を行いました。で、あちら側のリーダーがBudyko だった。

伊藤:え、それって1980年代ですよね?冷戦の真っ只中、デタントも崩壊して。その時期にソ連と共同研究するなんて、米国は共産圏の研究水準によほど関心があったのでしょうか?

眞鍋:と言うか1970年頃から米ソの科学者は旧ソ連のあちこち、たとえばレニングラードやタシケントで会議を持ち、地球の気候について盛んに討論していたのです。国連の世界気象機関(WMO)も後押ししていた。伊藤さんは米ソが鍔迫り合いする会議を想像したのだろうけど、そういう感じではありません。どれも友好的な会合で、冷戦という雰囲気はなかった。それに僕はソ連に行くと友達に会えるから、とても楽しいんですよ。すごいvodka!そしてまあ、キャビアのおいしいこと!(全員が笑)

阿部:先生もソ連に行ったんですか?

眞鍋:ええ。もう、素晴らしかったんです。ある滞在の最後にはBudykoが僕達を大きな軍用ヘリコプターに乗せて、タジキスタンやその南のアフガニスタン国境、それを超えたパキスタン近くの峰を上がってね。そのどこかの頂上、標高5000 mくらいの所に着陸して、そこでまたvodkaを飲んで。もう、実に楽しかったです。

松野:それはすごい。アフガニスタンへの侵攻もあった頃ですよね。もしかすると当時のソ連も欧州センターのように大循環モデルを自国に持ち込みたかったのでしょうか?そして自国でも モデルを開発したいと。

眞鍋:「もしかすると」ではなく、彼らは驚くほど積極的でしたよ。だから軍用ヘリまで使って僕達をヒマラヤの天辺まで連れて行って。

伊藤:うーん。そんな時期に国境の山岳地帯へ軍が外国人研究者を連れてゆくって、とてつもなく異例ですよね。何をしに行ったのですか?観光じゃありませんよね?

眞鍋:それはもう、その辺りの山岳氷河がどんどん後退している様子をBudykoが我々に見せるためですよ。

阿部:ああ、なるほど。その頃にはソ連の人々も気候の変化を感じていたんですね。色々な意味でびっくりですが、彼らの本気度が感じられます。


GFDLの研究環境

松野:一般論に戻りますが、GCMのように大規模な数値モデルを作るのはとても大変です。当時GFDLにあった眞鍋さんのグループではRobert StricklerやRichard Wetheraldがプログラミングを担当していたと聞いています。眞鍋さん自身はプログラミングに関与せず、数値実験結果の解析と論文執筆に集中できる環境にいたと理解して良いでしょうか?

眞鍋:ま、結果としてそうなりました。

阿部:それは私も伺いたかったことです。1960–1970年代にかけて眞鍋先生は「世界一たくさん計算機を使う男」と呼ばれていたそうですね。あの頃のGFDLでは研究者とプログラマとの間にどういう協力体制がありましたか?

眞鍋:実は、放射対流平衡の計算までは僕自身がプログラムを書いていたんですよ。しかしバグがなかなか取れず、ずいぶん苦労しました。いつもそれが気にかかって朝の2時や3時に目を覚まし、そのままオフィスへ行ってバグ探しをする。大変でしたね。でも、その苦労は後で役に立ちました。最終的には技術スタッフに僕の考えを伝えてプログラムを作ってもらい、数値実験の実施も任せたのですが、そうなってからも僕は技術スタッフ達が書くプログラムのミスを見付けることができました。もし僕が殿様みたいに全くプログラミングをせずに最初からすべて他人に任せていたら、そういうことは不可能だったでしょう。

松野:そうですか。しかし当時のGFDLでも研究者が自分でプログラムを作り上げる例がありましたよね?例えば眞鍋さんと同様に日本からGFDLへ渡った都田菊郎さん9とか。

眞鍋:はい。でも僕自身に関しては、プログラミングを人に任せる方が効率的でした。人には向き不向きがありますから、それぞれが自分の得意なことに専念するのが大事だと思います。

伊藤:研究の方向性に関する見通しが良かったから、優れた人材が眞鍋さんの下へ集まったのでしょう。

眞鍋:いや、それよりも僕のところで働いていた人々がたまたまそういう能力を持っていた面が大きいです。

松野:さて気候に関する精巧な数値モデルが出来上がり、それを操る人材が揃っていたとしても、モデルを動かすためには計算機資源が必要です。例えば先ほどお話しされた放射平衡の計算でも、水蒸気や二酸化炭素の光学特性をきちんと扱って放射伝達方程式を積分し、気温の高度分布の時間変化を追うには大きな資源を要したはずです。GFDLにはその実現に十分な量の計算機資源があったのですよね?

眞鍋:はい。計算機資源はふんだんに使えました。

松野:そうですか。この研究分野において当時の日本と米国との最大の違いはやはり電子計算機の存在でしょう。眞鍋さんが渡米された1958年と言えばGFDLでも大型計算機が使えるようになり、IBM 701、704、7090あたりが使われていた頃ですね。それでも計算機資源は貴重だったわけですが、眞鍋さんに対して優先的な資源の割り当てがあったりしたのでしょうか?

眞鍋:しばしばそう誤解されるのですが、それはありません。私達の研究グループには計算機のTime Sharing System(TSS)に詳しい人が大勢おりました。TSSを駆使することで、計算機資源を最大限有効に使えたのです。

松野:ここで言うTSSとは、いわば隙間資源の有効活用という意味ですか?

眞鍋:その通りです。TSSを上手く使うことで私達のプログラムは他のグループの計算の隙間にスルスルっと入り込み、最大限まで計算機資源を使い切ったのです。それにより私達は大きな数値実験を実施できました。

松野:あ、そうだったのですね。私はSmagorinskyが眞鍋さんへ優先的に計算機資源を配分していたものと思っていました。眞鍋さんの研究プロジェクトはGFDLの看板でしたから。

眞鍋:いえ、そういう贔屓(ひいき)は全くされていません。僕達の計算機の使い方が巧みだったからです。

阿部:GFDLで数値実験を行っていた研究者はみんなTSSを利用して効率良く資源を使っていたのですか?

眞鍋:そうでもありません。例えば都田さんの計算は効率が悪く、計算機資源を無駄遣いしていました(笑)。それでもSmagorinskyは懐が深かった。「都田は計算機の無駄遣いをしているが、素晴らしい研究を行っている。計算機を少々無駄遣いするくらいは構わない。」と言って、都田さんに もどんどん計算機資源を与えていました。実際のところ欧州(ECMWF)の予報が出発できたのは都田さんがあそこへ行き、非効率なものではあったが彼のプログラムを移植したからです。

松野:それは良い話ですね。結果を見れば、ECMWFは都田さんが関与した時代から一貫して世界の中長期天気予報分野で先頭を走り続けている。そして今のお話を伺えば、Smagorinskyが長い期間にわたりGFDLをリードできた理由も分かる気がします。

眞鍋:はい。彼はまさに理想的なリーダーでした。

松野:GFDLにいらした頃、眞鍋さんはSmagorinsky以外にも多くの研究者と交流されたと思います。GFDLに敷地を提供するPrinceton大学には当時、天文学者のMartin Schwarzschildなどもいましたよね。彼とも交流はあったのでしょうか?

眞鍋:少しだけね。GFDLは1968年頃にWashington DCからPrincetonへ移転したのですが、その時にはGFDL受け入れの是非を議論する委員会をPrinceton大学が作ったのです。Martin Schwarzschildはその委員の一人でした。地質学者のHarry Hessなどもね。その委員会がGFDLをPrincetonに呼んでも良いという結論にしてくれたんです。

松野:なるほど。Washington DCからPrincetonへの移転は、GFDLにとって結果的に良かったのでしょうか?

眞鍋:はい、有り難かったです。やっぱりWashington DCにいるとね、年がら年中「その研究は実用になるのか?」と言われ続ける。でもそこから離れてPrincetonに来たら、俗離れした研究をやっても誰も何も言わなくなった。

阿部:ふふ、「俗離れ」(笑)。

松野:GFDL近隣の空気がそうですよね。あのForrestal Campusという所は何やら農場みたいで、その辺を牛が歩いていたりする。Washington DCとは確かに違います。

眞鍋:Smagorinskyだけではなく、米国気象局の長官だったBob Whiteや研究部長のHarry Wexllerに代表される上層部が僕達の研究の意義をきちんと理解してくれたことが有り難かったですね。さっき述べたPrinceton大学の委員会だけではなく、気象局も大学側と連携する形でGFDLの移転を認める英断を下した。そしてGFDLがPrincetonに移ってからは、我々の研究のために巨額な予算を確保してくれた。その金額たるや、大変なものですよ。だからGFDLには最先端の大型計算機が次から次へと入って来た。すごかったですねえ。

松野:Bob Whiteは当時のケネディ大統領とも仲が良いという話でした。本物の権力者達がGFDLの将来を考えていたのですね。

眞鍋:そう、驚くべきことで。そうこうするうちに米国は宇宙飛行士を月へ送り、着陸して石を採取して見事に帰還させるなど、すごく勢いのある時代だった。そういう時代に研究に没頭できた我々は幸運でした。ああいう雰囲気があったからこそ最先端の気候モデルを作れたんです。

阿部:ああ、何かとても羨ましい。


人生を楽しむ秘訣

松野:眞鍋さんが渡米された後である1960–1970年代、地球の平均気温は低く、寒冷と言える気候でした。日本でも氷河期が来ると噂され、北極の氷山が大西洋を南下したこともあります。その時期に眞鍋さんは地球の温暖化に関係する論文を幾つも発表された。その頃には「将来は地球が温暖化する」と既に確信されていたのですか?

眞鍋:いいえ、そんなことはありません。確かに1940年代から1970年代にかけて全球平均気温や地表面温度は下がり続け、一方で二酸化炭素濃度は上昇していました。でも、そういう状況はそれ以前にも度々あったんです。私の本(脚注7)のp.16にある図を見てください。私はそのことを知っていたので、当時の寒冷化は気になりませんでした。

松野:それでも眞鍋さんは1967年に放射対流平衡モデルを使って二酸化炭素濃度のみを2倍および1/2にした数値実験を行い、大気の温度を計算して論文10を発表されました(図)。その結果はノーベル財団が発表したノーベル物理学賞の業績解説でも引用されているわけですが、あの研究はどういう意図で行われたのですか?

放射対流平衡モデルを使って計算された大気温の高度分布

眞鍋:あれは一種の寄り道ですな。そのことは林祥介さん(神戸大学教授)が見事に看破してくれました11

阿部:確かにフーリエ以来、地球の気候に関しては二酸化炭素の役割が重要だと認識されていました。後の時代にはアレニウスも大気中の二酸化炭素濃度を2倍にする問題設定を考えています。そういった話は先生のご著書の第2章と第3章に書かれていますね。

眞鍋:その通りです。その辺りの物事には以前から僕も関心があり、調べてみただけのことです。

松野:なるほど、純粋に科学的好奇心からの研究だったのですね。

阿部:出発点が好奇心だったとしても、そこから考えを深めてああいうモデル計算をやり抜くのは、普通の人にはできないことです。

松野:そうですね。今の阿部さんの発言に関連し、眞鍋さんに対して私が持つ印象をひとつ申し上げましょう。眞鍋さんはとにかくよく考えるのです。研究者ならそんなの当たり前だと思われるかもしれませんが、眞鍋さんほど一つの物事を考え続ける人はそう多くはいない。たとえば僕が大学院に入って間もない頃ですが、眞鍋さんとはしばしば研究の議論をしました。冷静に話が進むうちは良いのですが、議論は往々にして白熱し、時には眞鍋さんの旗色が悪くなることもある。そうすると眞鍋さんは「ちょっとdenkenして来る。」と言って、どっかへ行っちゃうんですね。denkenはドイツ語です。「考える」という意味。

阿部:えー、隠れちゃうんですか?

松野:そう。どこに行くのか、建物の外に出ていったのかトイレに籠っていたのかは定かでないのですが。でも、しばらく隠れた後には再びふらっと現れて、その時にはしっかりとした反論が出来上がっている。そういうことが何度もありました。眞鍋さんは徹底的に考える人、denkenする人だというのが僕の印象なのです。僕が阿部さんとよく議論する氷期サイクルの話で言えば、眞鍋さんはきっと「氷期が終わると氷がこう解けて、その解け水があそこへ行って、それがこういう影響を及ぼして、その結果ああいう現象が生じて、・・・」という感じでいつも延々と考えているのでしょうね。

阿部:研究者は単にモデル計算して論文を書くだけではいけない。計算の結果を見て「これはなぜこうなるのか?どのように説明されるのか?」を徹底的に考えるべきである。私もそれを眞鍋先生から教わりました。

眞鍋:まあ、それが僕の長所なのか短所なのか分かりませんが、とにかく同じことをしつこく考え続ける。一生考え続ける。それが僕の人生における一番の楽しみでしたね。今でもそうです。

阿部:はい。先生は物事を考えるのが本当に楽しそうです。

眞鍋:ひとつのことを「これでもか、これでもか」と考え続ける。すると面白い考えがますます多く浮かんでくる。そういうのが人生のモットーとして良かったんじゃないかな。

松野:論文が印刷になる前のゲラ校正でも、眞鍋さんは内容へ戻って検討されますよね。私もGFDLでご一緒した時に目撃しましたが、受理された論文のゲラが戻ると眞鍋さんがそれをいつまでも見ているのです。「この単語をここで使うのは適当なのかな?よく分からなくなったからもう一度考える」とか言いながら。計算結果の物理量についても必要があればそこで考え直すらしく、プリンタからの出力用紙をずらっと広げて再検討されている。そのように徹底的に考えること、どこまでも細部を詰めて考えるお姿の記憶が鮮明です。先ほど話題に上ったご著書(脚注7)の執筆でも眞鍋さんは徹底的に物を考えられたようで、幾つかの素過程については従来とは異なる説明の仕方を採用されたと伺いました。

阿部:有効放射温度や有効放射高度の説明ですね。あの本の第1章や第6章にあります。そこでの説明は眞鍋先生がこれまで論文で行って来たものとは確かに違います。ノーベル賞の受賞記念講演でもこの新しい説明を使われていましたね。

眞鍋:あの本の執筆には確かに長い時間が掛かりました。しかも書き始めてから13年ほど経った頃、阿部さんが今おっしゃった辺りの説明に自分自身で納得できなくなっちゃった。要するに、地球温暖化に関する僕自身の理解が足りないのではないかと。そこで改めて考えて、気温や水温のみならず水循環についても整合的に説明できるよう理屈を作り直したのです。

阿部:対流調節近似によって設定された温度勾配ありきで説明を始める方式ですね?

眞鍋:その通りです。大気中の温室効果ガスが増えれば上向きの赤外放射は減り、下向きの放射は増える。このことを起点にすれば大気温の上昇も水の循環についてもすべて整合的に説明できることに気が付いた。

松野:それについての数値実験の結果はかなり前(1960年代)に得られていたはずですが、改めて考え抜いた末にようやく納得できる説明に到達した、そういうことでしょうか?

眞鍋:そうです。もちろん、専門家向けには「その理由は放射伝達の式に含まれている。方程式を見ろ」という説明の仕方もありますよ。大学院教育ではそういう方式を採用しているのかもしれない。しかし最初からあんな複雑なものを見せられたら、大半の人は勉強したくなくなってしまう。だから自分で数値実験を行っている専門家の中にも、計算はできるし結果は知っているが物事の本質を理解していない人が多いのです。地球温暖化はそれほど複雑で、素人は言うに及ばず専門家にさえさっぱり分からない部分がある。しかし現実を見れば地球は温暖化しているわけですから、僕はその理由の説明を考え続けたのです。

松野:そうだったのですね。

眞鍋:僕があの本を書く上で最も慎重に避けた説明はこういったものです。「理由はよく分からないけど、モデル計算をするとこうなります。」地球が温暖化する理由をそんな風に説明したら、理解されないどころか僕の言うことを誰も信じなくなる(笑)。モデルを作って計算をして結果を得ることは大事だけど、結果が意味するものを正しく理解し、それを他人に説明できることも同じくらい大事である。そういう気持であの本を書きました。書籍の原題がそうです。“Beyond Global Warming” という原題のbeyondに込めたのは、地球が温暖化するという計算結果を超えて物事の本質的な理解に到達すべきという主張です。

阿部:denkenし続ける眞鍋先生ならではの、素敵な書名だと思います。

眞鍋:ありがとう。こういう感じで、くどいくらいに一つのことを考え続ける。僕が人生を楽しめている秘訣はきっとそれだと、今になって思いますね。


気候と生命、そして宇宙へ

松野:眞鍋さんは今後、どのような方向へ進まれますか?今もっとも面白く、興味があることは何でしょう?まさか地球温暖化絡みで政治的な方向へ進むことは、、、ありませんよね?

眞鍋:それはありません、安心してください(笑)。今の僕の関心はもっと長い期間の気候変化にあります。特に氷床が果たす役割。たとえばグリーンランドの氷床がこれからの2, 3千年間で急速に縮小するという予測には多くの人が同意しています。しかしもっと先、今後100万年間や1000万年間に地球上の氷床がどういう進化を遂げ、気候はどう変わるのか?そういう問題に興味があります。温室効果ガスの変化量や地球の運動による日射変動との兼ね合いも重要ですね。

松野:確かにそこは氷期の周期性を考慮した長期の気候予測という大きな課題へ繋がる点です。これについては阿部さんが氷床モデルを作って精密な計算を進めており、私も期待しています。

眞鍋:はい。そして更に長い期間、たとえば数億年以上に渡る気候変化を考えると、微生物の果たした役割が実に興味深い。プランクトンなどの微生物は地球環境の影響下で進化して来ましたが、それだけではなく、微生物が環境に対して影響を与えて来たことも分かりつつあります。その相互作用の歴史を知りたくて、僕も分子生物学の本を何冊か読みました。しかしその中身は簡単に理解できるものではない。とても難しい。でもこれはとても面白く、また大切なテーマです。

阿部:いわゆる環境と生命の共進化ですね。眞鍋先生はそれをノーベル賞受賞直後の記者会見でも述べられていました。地球を理解するには生物の進化を理解することが必須である、と。

眞鍋:はい。そして何と言っても宇宙ですよ!無数にある星、銀河、とにかく宇宙は面白い。地球と宇宙はつながっていて、地球の気候も宇宙の影響下にあります。阿部さんや伊藤さんがお詳しいミランコビッチ・サイクルなどはその典型ですよね。そして、もっと大きなスケールのコスモロジーは実に壮大です。ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した銀河の画像は傑作ではありませんか。見た目が台風とそっくりな渦巻き銀河もたくさんある。あの類似には目を見張ります。

阿部:ああ、本当にそうですね。

眞鍋:でしょう?コスモロジーって実に面白いんです。

阿部:はい、私もそう思います。そう言えば眞鍋先生が大学で専門分野を地球物理に定めた時、お父様に「僕には地球物理と天文の区別が付かない」と言われたと仰っていましたね。眞鍋先生は身近にあって目に見えるもの、たとえば雲や山や川に興味があったから天文学ではなく地球物理学、特に気象学を専門に選んだと伺いました。でも最近では技術が発達し、大きな望遠鏡を使えば遠い宇宙にある天体が手に取るように見える。まるで先生が小さな頃に見ていた雲や山や川のように。コスモロジーの世界がいよいよ地球に直結しそうな予感、わくわくする気持ちは私にもあります。もし眞鍋先生が今から大学生に戻ったら、地球物理学ではなくて天文学を専門にして、しかもそれらを融合した新しい科学を作るかもしれない。ねえ眞鍋先生、これからでも遅くありませんよ!

松野:確かにそうですね。太陽系以外の惑星系だって何千個も見付かっているし、人間に見える世界は大きく広がっています。

眞鍋:そう。僕はもっと勉強したいのです。コスモロジーが僕達の研究とも深い関わりがあるなんて、この歳になるまで気付かなかった。だからとても興味があって、僕は最近いつも天文学の本を開いて読んでいます。ハッブル宇宙望遠鏡の後継機も無事に動き出して、宇宙の果てにある銀河も見えるらしいじゃありませんか。とにかくコスモロジーは面白い。僕も、皆さんも、もっとエンジョイしなくては!


眞鍋 淑郎(まなべ しゅくろう)

1931年 愛媛県生まれ。東京大学理学部物理学科地球物理学課程卒業、同大学院数物系研究科地球物理学専攻博士課程修了。理学博士。米国気象局を経て米国海洋大気庁の地球流体力学研究所(GFDL)上級研究員などを歴任。1997年から2001年まで宇宙開発事業団と海洋科学技術センターによる共同プロジェクトである地球フロンティア研究システムの地球温暖化予測研究領域領域長を務めた。現在は日本学士院客員、プリンストン大学上級気象研究者、海洋研究開発機構(JAMSTEC)顧問およびフェロー。日本気象学会藤原賞、米国気象学会ロスビー研究メダル、ブループラネット賞、朝日賞、ボルボ環境賞、欧州地球科学連合ミランコビッチメダル、米国地球物理学会ウイリアム=ボウイメダル、ベンジャミンフランクリンメダル、クラフォード賞、ノーベル物理学賞、文化功労者・文化勲章などを受賞。

松野 太郎(まつの たろう)

1934年 長野県生まれ。東京大学理学部物理学科地球物理学課程卒業、同大学院数物系研究科 地球物理学専攻博士課程中途退学。理学博士。九州大学助手、東京大学助教授を経て東京大学 教授、北海道大学教授、地球フロンティア研究システム長、JAMSTEC地球環境フロンティア 研究センター長を経て、現在は日本学士院会員、東京大学名誉教授、JAMSTEC地球環境フロン ティア研究センター特任上席研究員(非常勤)およびフェロー。日本気象学会藤原賞、日本学士 院賞、米国気象学会ロスビー研究メダル、世界気象機関賞、ブループラネット賞などを受賞。

阿部 彩子(あべ あやこ)

1963年 東京都生まれ。東京大学理学部地学科地理学課程卒業、同理学部地球物理学科学士入 学および卒業。同大学院理学系研究科地球物理学専攻修士課程修了。スイス連邦工科大学地球 科学専攻博士課程修了、Dr. Nat. Sci. 取得。日本学術振興会特別研究員、東京大学助手、助教 授を経て、現在は東京大学大気海洋研究所教授。地球フロンティア研究システムでは地球温暖化 予測研究領域古気候研究グループリーダーを眞鍋淑郎領域長の下で務めた。日本気象学会賞、 日本第四紀学会学術賞、地球環境史学会貢献賞、日本雪氷学会学会賞、欧州地球科学連合ミラン コビッチメダル、日本学士院賞などを受賞。

森岡 優志(もりおか ゆうし)

1983年 東京都生まれ。東京大学理学部地球惑星物理学科卒業、同大学院理学系研究科地球惑 星科学専攻博士課程修了。博士(理学)。JAMSTEC付加価値情報創生部門アプリケーションラ ボ副主任研究員。2021年11月より米国海洋大気庁地球流体力学研究所とプリンストン大学大 気海洋科学プログラム客員研究員。日本海洋学会岡田賞、Advances in Atmospheric Sciences Editor’s Awardなどを受賞。

伊藤 孝士(いとう たかし)

1967年 山形県生まれ。東京大学理学部地球物理学科卒業、同大学院理学系研究科地球惑星物 理学専攻博士課程中途退学。博士(理学)。国立天文台天文シミュレーションプロジェクト講師。


付録1:本文への補足

発言の背景に関する解説

以下ではインタビュー本文に記された発言の幾つかに関し、その背景を解説する。

過去のインタビュー記録、講演の動画、その他の関連情報

眞鍋氏は日米両国で数多くのインタビューを受けて来た。ノーベル物理学賞の受賞後はその頻度が更に増したはずだが、受賞前にも長いインタビューが何度も行われ、その幾つかは文字媒体や音声記録として公開されている。以下ではそのうち日本では余り知られていないと思われるものを紹介する。

以下は阿部彩子氏が旧姓(大内) の時代に実施した眞鍋氏へのインタビューである。日本語で出版された眞鍋氏のインタビュー記録としてはこれが最古のものと思われる。

以下はインタビュー記録ではないが、ノーベル物理学賞の受賞よりも前に行われた眞鍋氏の講演動画が公開されている。

以下もインタビュー記録ではないが、眞鍋氏とMikhail Ivanovich Budykoの交流(本インタビューの pp. 2–3 を参照のこと)に関してソ連側の視点で分析した文献が存在する。British Columbia大学の卒業論文として提出されたものであり、Budykoと眞鍋氏の関係に関する記述は pp. 22–26 に見られる。

本インタビューの開催日時と場所

本文(p. 1)にも記されているように今回の眞鍋氏へのインタビューではすべてZoomが使われ、日米を跨いだオンライン形式で行われた。その開催日と双方の拠点を参考までに記す。下記の日付は日本におけるものである。

開催日米国側日本側
第1回 2022年12月2日 眞鍋氏自宅 日本学士院
第2回 2022年12月16日 眞鍋氏自宅 松野氏自宅
第3回 2023年1月13日 眞鍋氏自宅 松野氏自宅

正誤表

PJAニュースレター No. 15 印刷版に掲載された本インタビュー (およびそのPDF版) には以下の誤植が発見されている(本HTML版ではいずれも修正済み)。数値と単位の間の空白についてはSI単位系の規約集においてこうした箇所に空白を記すことが要請されているので(当該文書 p. 32, 第5.4.3節)、それが無い記載を誤植の一種として扱った。正誤表の最終更新日は2023年4月17日である。

ページ位置
3 右欄, 上から4行目 5000m 5000 m
4 左欄, 下から9行目 たまたま々 たまたま
5 図キャプション, 上から2行目 150ppm 150 ppm

付録2:眞鍋氏のアートパネル

ときに芸術の都とも呼ばれるフランスの首都、パリ。その要衝であるGare du Nord(北駅)RER (Réseau express régional d'Île-de-France) B線とD線のプラットホームでは、眞鍋淑郎氏の論文内にある数式をアート化した巨大パネル群が人々を出迎えている。多くのパネルの中には眞鍋氏の名を感嘆符付きで描画したもの ("Syukuro Manabe!") まであり、いやが上にも人目を惹く。これらは2015年11-12月に開かれた第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21) および京都議定書第11回締約国会合(CMP11)を記念して芸術家Liam Gillickが製作したものであり、2021年秋のノーベル物理学賞受賞よりずっと前から眞鍋氏の名が世界中に轟いていたことの象徴とも言える。しかしこのアートの作製や展示に際して製作者やRERを運営する鉄道当局から眞鍋氏への許諾の依頼などは一切行われず、事後報告すら届いていないらしい。ご本人はこのアートパネルの存在を報道で知ったそうで、「びっくりこきました」と仰っている (本インタビュー収録日の雑談より)。

このアートに関する情報は検索エンジンに“manabe paris gare du nord rer”といったキーワードを入力することで容易に得られる。例えばこちらのブログによれば一連のパネル総数は42であり、それらはRER B線を使ってCOP21およびCMP11の開催地であったパリ北部のコミューンLe Bourgetへ向かう乗客に対して地球の気候に関する問題意識を喚起するために設置された、とある。以下にある6枚の写真は本インタビューの聞き手である阿部彩子氏とその学生である樋口太郎氏(撮影時は東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程在学中)がパリ市内から気候・環境科学研究所 (LSCE; Laboratoire des Sciences du Climat et de l'Environnement) に赴く途上、RER B線のプラットホームにて撮影した(2023年3月21日撮影)。 LSCEはパリの南西、フランス原子力・代替エネルギー庁(CEA)のl'Orme des Merisiersキャンパス内にあり、そこもまたRER B線の沿線である。