ニュースレター No.35 受賞者寄稿
目次
学術奨励賞受賞者寄稿
「地球環境問題に経済学の立場から取り組む」
シカゴ大学ハリス公共政策大学院教授 伊藤 公一朗
私が環境経済学の道を志そうと考えたのは高校時代であった。地球環境問題に取り組む仕事がしたいと考えていたが、数学は好きだったものの自然科学よりも社会科学に興味があり「高校における文理選択」という悪しき日本の風習に悩まされていた。そんな中、後に学部時代の恩師となる植田和弘先生(京都大学)が書かれた新書に触れ「環境問題の根本は人々や企業・政府といった社会システムの問題であり、環境経済学のような社会科学の分析なくして真の解決の道はない」という言葉に心を打たれた。それから四半世紀を経た今でもこの学問への思いは変わらず、幸運にも研究者としての仕事を続けさせていただいている。
この四半世紀で変わったことは、気候変動を始めとする地球環境問題の深刻さが日に日に増していることである。異常気象や自然災害は各国で増え続け、地球環境問題は遠い未来の問題ではなく、差し迫る現実の問題となってきている。私は理論と実証の両面から市場分析・政策分析を行うことで、微力ながら地球環境問題の解決に貢献できればと考えている。例えば太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーはクリーンで限界費用ゼロであるという利点を持つが、既存の電力網インフラや市場設計では対応しきれない様々な課題を抱えている。同様に、電気自動車の普及は脱炭素へ向けた重要なステップとなるが、電力システムと自動車市場というこれまで接点がなかった社会システムを統合する必要に迫られている。そういった課題の解決に寄与する市場設計や政策設計は何か。この問いに対し、理論と実証の両面からアプローチし、ランダム化比較試験・自然実験・構造推定など様々なデータ分析手法を用いて分析を続けている。
私の研究のほぼ全ては共著者と政府・企業の方々との共同研究であり、私一人で成し得た成果ではない。特に、京都大学の依田高典先生、政策研究大学院大学の田中誠先生とは長い年月をかけて日本の電力市場の研究を続けてきた。この場を借りて共同研究者の皆様、学部・大学院時代の恩師、及び日々の研究生活を支えてくれている家族に感謝し、今後とも研究に精進していきたいと思う。
学術奨励賞受賞者寄稿
「細胞表面センサーの機能を自在に操り、次世代の薬の開発に貢献する」
東北大学大学院薬学研究科教授、京都大学大学院薬学研究科教授 井上 飛鳥
我々の体を構成する数十兆個の細胞は、常に互いに情報を交換しながら協調的に働くことで、生体の恒常性を保ちます。情報交換が不全になると、細胞同士が協調して働くことができなくなり、様々な疾患につながります。細胞間の情報はアドレナリンをはじめとする分子がその実体であり、細胞表面に存在するセンサー(正確にはGPCRと呼ばれる受容体タンパク質群)によって感知されます。情報分子が結合したセンサーは、細胞がこれに適切に応答するよう指令(シグナル)を送ります。多くの薬はこれらのセンサー群を標的としており、機能異常となった細胞間の情報交換システムを正常化することで薬効を発揮します。
細胞の有する多種多様なセンサーとシグナルの関係を調べることは、疾患や薬効・副作用の分子メカニズムの理解に重要です。私の研究室では、異なる種類のシグナルを定量的に比較できる計測技術を開発し、ホルモンや薬が結合したセンサーからどのようなシグナルが生じるかについて、網羅的に測定しています。この実験で得られたデータを精査することで、薬の薬効や副作用に関わるシグナルを特定することができます。さらに、情報科学やタンパク質工学を駆使して、特定のシグナルを誘導できる人工センサーを作り出すことができます。これにより、疾患治療に役立つシグナル経路の解明につながります。
今回の受賞研究テーマは、国内外の多くの研究者との出会いによって発展したものです。研究者と交流や新しいアイディアを実践することは、私にとって研究生活の大きな醍醐味になってきました。「幸運は用意された心にのみ宿る」の格言のように、研究者を目指す若いみなさんには、日頃から視野を広げる努力とオープンマインドの姿勢を持ち、新たな出会いを通じて次なるサイエンスを展開することを期待しています。
学術奨励賞受賞者寄稿
「だから歴史が何の役に立つのか説明してよ」
京都大学白眉センター/ 人文科学研究所特定准教授 小俣ラポー 日登美
このたびは、歴史ある学術機関から、このように栄誉ある賞を賜り、誠に恐れ多く、身に余る光栄に存じます。そう私が本気でヒシヒシと感じるのは、並みいる先端技術の科学研究者の中で、よりによって私が「目に見えて役に立つ」ことは滅多にない歴史学の研究者だからでしょう。私が現在お世話になっている京都大学白眉センターにおいても、所属研究者として選抜されるのは圧倒的に科学者が多く、人文科学ひいては歴史学の果たすべき役割について深く考えざるをえない境遇に私は日常的に身をおいています。
今からさかのぼること八十余年、ドイツ軍に侵略されたフランスで、研究を措いてレジスタンス運動に身を投じたユダヤ系の歴史学者マルク・ブロック(1944 年没)は、その遺稿において子供からの質問に全力で答えようとしました。それこそが「歴史が何の役に立つのか説明してよ」という素朴な、しかし現在も多くの人に記憶され、共有され続けている重要な疑問でした。すでに科学研究がアカデミアを席巻する未来を予測していたブロックは、学術上の確実性・普遍性は程度の問題であるとし、「よりよく理解するための努力」──すなわち未完成の過程を歴史学の本分としました。過去について研究して、新たな「事実」を掘り起こしても、今この瞬間にその新事実は過去になっていきます。そしてそれは、「真実」のほんのわずかに過ぎません。
私が研究してきた過去の殉教者の聖性の審査過程も、厳密な裁判制度に基づいているように見えて、その内情は個別的な状況・事件がからみあって累積した先に出た結果です。必然的に導き出された成果、計算された法則とは到底言えません。もともと人間の聖性のような資質は数値化して証明できませんし、奇跡の存在はなおさらです。裁判をすっぽかしたり、記憶があやふやだったりすることを臆面もなく白状する過去の人間の生々しい不完全さの先に、現在となっては歴史とみなされる事実が構築されたりするのです。このような事実の構築過程を明らかにすることで、自明だと思われている事柄は決して当たり前ではないと気づくことができます。そして、今そこにある現実を異なる形で見る力、見ようとする努力を培えるのだと思います。
では果たして、この種の視点や努力は、歴史学に限定されるものなのでしょうか。そう考えた時に、私は歴史学が深い次元であらゆる学問に通じていくのだと信じています。
学術奨励賞受賞者寄稿
「農学に根差した学際的マテリアル研究」
大阪大学産業科学研究所准教授 古賀 大尚
この度は名誉ある日本学士院学術奨励賞を賜り、身に余る光栄です。
私の研究は、植物由来のナノセルロースや甲殻類由来のナノキチンといった農学分野の先端バイオマス資源を活用して、循環型・環境調和性かつ高機能性のマテリアル群を創出するものです。これまでに、農学分野の先端バイオマス資源と伝統技術(紙抄きや炭焼き技術)を科学的に活用することで、再生可能な物質変換リアクター、電気特性を広範に制御可能な半導体ナノマテリアル、自然に還る電子デバイス素子、生体親和性の健康診断デバイス素子等をつくりだすことができました。これらの成果が、グリーンサステナブルケミストリー・エレクトロニクスや予防医療といった化学・工学・医学分野の先端に波及効果をもたらすことを期待しています。
私は中学生の頃から資源・環境問題に興味を持ち、大学では農学部で生物資源環境科学を学びました。博士( 農学) を取得してから今までの15 年間は、生物由来のバイオマス資源を活用したマテリアル開発研究を進めてきましたが、特に、化学~工学~医学に跨る学際的な技術・機能開拓に力を注ぎました。そのため幅広い学会に参加してきましたが、最近は「農学出身なんですか!?」と驚かれることが増えてきました。時折、自身が根無し草のように思えることもあります。一方で研究を離れると、息子と一緒に自然を駆け回って昆虫採集・飼育を楽しんでいます。私の根っこには、やはり農学がありそうです。これからも、人と自然が共存して持続的に発展する「農学的思想」に根差した学際的なマテリアル科学を追求していきます。
学際的な研究には幅広い知識と技術が必要になります。その中で成果が形になり、本賞を賜ることができたのも、ひとえに異分野の強力な共同研究者達、一緒に研究を進めてくれた学生さん・実験補佐員さん達のおかげです。この場をお借りして心より感謝申し上げます。
学術奨励賞受賞者寄稿
「ゲルの物理で医療を変える」
東京大学大学院工学系研究科教授 酒井 崇匡
ゲルは、高分子の三次元網目が水を吸収して膨らんだ物質であり、オムツやソフトコンタクトレンズ、食品として身近な物質です。また、生物の軟部組織も類似の構造・組成をもつことから、医用材料として注目を集めており、これまでに多くの実用化に向けた研究・開発がなされてきました。しかし、既存の製品を置き換えるに至った例は多くありません。その要因の一つは、ゲルの構造が不均一であり、機能の予測・制御が困難であることに由来します。その結果として、医療現場で必要とされる厳密な物性制御は困難であり、ゲルの医療応用は困難とされてきました。
それに対して、私は、ゲルの持つポテンシャルを活かし、複数の医療材料を開発するためには、ゲルの構造・物性相関を理解することが必須と考えました。そのためには、従来、常識であるとされた不均一性を抑制したゲルの開発が必要不可欠であると考え、Tetra ゲルを設計・開発しました。Tetra ゲルはゲルを規定する明確な構造パラメータを持つことが特徴で、構造を調整したTetraゲルに対して網羅的に物性を測定することで、構造・物性相関を調査することが可能です。例えば、ある実験結果を、理論の大元となっている分子描像から予測される素朴な関係式と比較し、矛盾なく説明できれば、理論はその点においては正しく、不均一性の存在を考慮する必要はないとすることができます。
この実験物理的アプローチを愚直に続けることで、Tetra ゲルの構造・物性相関を説明するために、不均一性を考慮する必要がないことを示しました。現在では、Tetra ゲルが均一であることは広く認識されており、Tetra ゲルの諸物性は、作製条件から数式を用いて予測することが可能です。この予測性は、人工硝子体や、止血剤、癒着防止剤、再生医療足場材料などの医療用ゲルの開発の礎となっています。今後は、大学初スタートアップを通して、医療を変えるゲルを開発し、近い将来、患者さんに届けることができるよう、進めてまいります。
学術奨励賞受賞者寄稿
「星と惑星の誕生を化学の視点で探る―分野融合が拓く新たな天文学」
理化学研究所開拓研究本部主任研究員 坂井 南美
生命を育むに至った地球のような惑星は、この宇宙にどれほど普遍的に誕生し得るのでしょうか。この問いに答えるには、恒星や惑星系の誕生という構造形成過程を知るとともに、そこで物質がどのように進化したのかという宇宙の物質史を理解する必要があります。はやぶさ2やOSIRIS-REx によるサンプルリターンにより、地球外でアミノ酸や核酸塩基など生命関連の有機分子が「自然に」作られていることが明らかになり、その起源を辿る重要性が一層高まっています。
恒星と惑星系は希薄な星間ガスの自己重力収縮によって形成されます。原始星を育む母体となる雲や原始星円盤(原始惑星系円盤の元となる構造)の化学組成を、野辺山45m 電波望遠鏡やアルマ望遠鏡を用いた分光観測で調べると、同じような円盤構造をもつ天体でも大きく異なることがわかってきました。たとえば、炭素鎖分子という煤のような分子が豊富な天体と、飽和有機分子に富む天体が存在します。さらに調べると、天体の物理的個性や環境の違いにより、星間塵を介した分子の吸着・蒸発過程に差が生じ、原始惑星系円盤の形成時に衝撃波が発生するかどうかによって、降着するガスの化学組成にも多様性が生じることがわかってきました。母体となる雲の元素組成が同じでも、“ 生育環境” や天体の物理的特性の違いによって、惑星系の化学組成は異なり得るのです。これは、太陽系の過去を探る上でも新たな疑問を投げかけています。
化学的多様性の全貌を明らかにするには、宇宙という極限環境での分子の生成過程を理解することに加え、観測のために必要な分子の分光学的性質を地上の実験室で調べるなど、分野融合的アプローチも必要となります。近年、惑星科学や物理化学といった分野と連携した研究が進み、天文学の枠を超えた新しい視点から星や惑星の進化とそれに伴う物質の歴史を探ることができるようになってきました。こうしたアプローチを今後さらに発展させることで、私たちの起源に対する理解を深めていけるのではないかと期待しています。