ニュースレター No.31 日本学士院学術奨励賞受賞者寄稿
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日本学士院学術奨励賞受賞者寄稿
「未来の金の卵を増やしたい」
カリフォルニア大学アーバイン校医学部准教授 五十嵐 啓
この度は海外所属という立場ながら日本学士院学術奨励賞を頂くことができ、大変嬉しく思っております。私の研究は「記憶が脳でどのように作られるのか」と、「認知症で記憶がどのように失われるのか」という問題を、マウスを使って脳の神経細胞の解剖結合と電気活動を明らかにしながら解き明かしていく研究です。大学院では「匂い(嗅覚)」の研究を行っていたのですが、隣の研究室の宮下保司先生(現学士院会員)の記憶メカニズムの研究に大変感銘を受け、宮下先生がなされた発見のその先に進みたいと願って研究を続けてきました。2月7日の授賞式では嬉しいことに、(厳しいことで有名な)宮下先生から激励を頂くことができましたので、少しでも認めて頂けたのかなとほっとしております。巨人の肩が最初から用意されていた研究ではありますが、なるべく遠いその先を見つけていきたいと思っています。
また、自分自身の研究を発展させることは研究者として当然の責務なのですが、昨今の厳しい研究環境のなか、将来の金の卵をどう増やしていくかということも研究者としてのもう一つの使命だと強く感じています。コロナが明け、日本の大学で講演する機会が増えてきましたが、学生さんたちと話すたびに、彼ら彼女らが博士課程への進学を敬遠しているように感じるようになりました。大学院数年間の学費を負担をして研究の道に進んでも、明るい未来があるようには思えないからでしょう。これはひとえに私たち先に進んでいる研究者たちの責任であるはず…私たちは若い人が魅力的に感じられる研究環境を作っていかなければならないでしょう。日本を離れて14年が経ち、日本の科学に直接の貢献はできておりませんが、自分としての役割を模索しているところです。日本の学会運営や日本からの短期留学の学生さんの受け入れなど、身近なところから始めておりますが、身の回りでお役に立てることがありましたらどうぞ仰せ付け下さい。
「「もれる」利他」
東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター・センター長、リベラルアーツ研究教育院教授 伊藤 亜紗
所属する東京工業大学は、2020年2月に未来の人類研究センターを創設した。私はこの組織の初代センター長をつとめさせていただいている。
未来の人類研究センターは、東京工業大学という理工系大学のなかに作られた人文社会系の研究拠点である。「利他」をテーマに、哲学、政治学、宗教学、科学史、芸術学などさまざまな専門をもった研究者が2年任期で所属し、共同研究を行っている。
研究者は利他的な存在である。自分の研究が、社会をよりよいものにしたり、知的好奇心を満たしたりするものであってほしいと思っている。
しかし、この「〇〇のため」が、簡単なようで難しい。たとえば、病気で体が思うように動かなくなった人のために、割り箸をわり、弁当の蓋をとり、おかずを口に運んであげたとしたらどうだろう。助ける方はよかれと思って手助けをしているかもしれないが、される方からしたら、時間がかかっても自分でチャレンジしたいと思っているかもしれない。先回りの善意はしばしば相手をコントロールし、支配することにつながってしまう。文化人類学者のマルセル・モースが指摘したように、「ギフト」という言葉には、「贈り物」と同時に「毒」という意味もある。
そこで、我々のセンターでは、利他を「与える」という能動的な行為としてとらえない、というところから出発している。ヒントになったのは、学内の理学系研究者との交流だ。自然の営みに目を向けてみれば、そこにあるのは、ある生き物が排泄した物質やガスを他の生き物が生きていくために活用するという循環である。そこには意図も計画もない。
となれば、利他にふさわしい動詞はむしろ「もれる」なのではないかと思う。ひとりの人や組織がすべてを独占するのではなく、木もれ日のように、外へともれ出させていく。もれ出たものを、必要な人が受け取り、生きていくために使っていく。「もれる」は、一般的には「漏電」「漏洩」などネガティブなイメージがあるが、それはあまりに人間的な価値観なのかもしれない。理工系の研究者が身近にいるからこその、人文社会系研究のあり方を模索したい。
「労働市場に関する科学的なエビデンスの提供を目指して」
東京大学社会科学研究所教授 近藤 絢子
私の専門は労働経済学で、日本のデータを用いた実証分析が中心である。若年期に経験した不況の長期的な影響、雇用機会と女性の家族形成行動の関係、被災者の周囲に就業者が多いことが再就業を促進するか等、一つのテーマを深く掘り下げるというよりは、そのときに気になるトピックについてその都度適したデータと手法を探して実証分析をしてきた。特に近年力を入れているのは、計量経済学の因果推論の手法を応用した、広い意味での政策評価研究である。これまでも、1961年の国民皆保険導入の事例を分析して受診行動や医療の供給サイドへの影響を明らかにしたり、高齢者雇用促進政策の直接効果のみならず高齢者の賃金抑制や若年の採用抑制といった副作用についての実証研究を行い、2000年代の日本の高齢者の再雇用促進政策は高齢者の就業率を上げた半面賃金を抑制し若年への影響は限定的だったという結果をえたりした。現在は認可保育所の入所選考結果が母親の就労に与える影響分析や、税や社会保障制度における所得制限が就労を抑制する可能性の検証などを行っている。
こうした実証研究のためには、信頼性の高いデータが必須である。労働力調査や賃金構造基本統計調査などの大規模な政府統計の個票データを複数組み合わせて使うことも少なくない。残念ながら日本は、欧米のみならずアジアの他の国と比べても、研究者にとってデータへのアクセスが良いとは言えない。それでも最近は、国や地方自治体の行政業務データへのアクセスもすこしずつ開かれてきている。こうしたデータへのアクセスを可能にしてくれた先輩研究者や行政側の関係者に改めて感謝したい。
近年、EBPM(Evidence based policy making, エビデンスに基づく政策立案)への関心が高まっている。信頼できるデータと科学的な手法に基づくエビデンスの提供に、今後もささやかながら尽力していきたいと思っている。
「電子線と光」
東京工業大学物質理工学院准教授 三宮 工
電子線を用いた光計測の歴史は、100年以上前の電子の発見にまで遡ります。真空中で陰極から飛び出した「何か」によって、対極側のガラスが光り、その「何か」が磁場で曲がることから電子の発見につながったといわれています。この、電子線によってガラスが光る現象はカソードルミネセンスと呼ばれ、加速電子による発光のことです。カソードルミネセンスは、数十年前まではブラウン管テレビに用いられており、とても身近な現象でした。ブラウン管テレビは、加速電子をスクリーンの蛍光体に正確に照射して色や濃淡を出す技術で成立していて、ほとんど電子顕微鏡です。
今私が行っている研究は、このカソードルミネセンスと電子顕微鏡を使っています。電子顕微鏡を用いたカソードルミネセンス計測により、物質の光学特性を光では見えない電子線の空間スケールで可視化することができます。これによりナノ材料の光学特性の空間分布を評価したり、電子線を用いた特異な発光を調査しています。電子線や光をうまく利用するには、それらの波としての性質を生かして、その波面(位相)を計測することが重要になります。波面制御や波面(位相)計測は、顕微鏡としての空間分解能の向上だけでなく、強度計測だけでは得られなかった「隠れた情報」の解析が可能になります。また、カソードルミネセンス計測から得られるナノスケールでの発光分布の情報は、発光素子の高効率化や光学バイオセンサーの高感度化などにも有用です。
カソードルミネセンスのように古くから知られている現象でも、最新の電子顕微鏡技術・光学計測技術により、全く新しい発見や、見過ごされていたことが明らかになってきます。電子線と光の相互作用に関する研究は今世界で急速に進んできています。技術の進歩は研究の進歩そのものです。今後も、光と電子線技術を融合し、これまで見えなかったものを可視化する研究を進めていきたいと思います。
「植物の全身性シグナル伝達機構と接木研究」
名古屋大学生物機能開発利用研究センター准教授 野田口 理孝
植物は太陽光を利用可能なエネルギーに換えてくれる存在であり、地球上の生命を支え、私たち人類もその恩恵を受けて生活しています。私は、そんな植物をもっと理解することで、これからも安全に豊かに未来を生きていけると思い、大学生の頃に植物科学の分野で研究することを決意しました。数千年の歴史を持つ育種分野には、地球温暖化という待ったなしの局面で、この先わずか10年から30年程度の間に大きな進歩を求められています。科学的な知識と技術を総動員して、自然生態系への影響をも考慮した、持続可能な種苗の改善と農業利用法の革新を、農業分野および社会との連携によって実行していくことが目標です。
植物は、日々刻々と変化する環境に適応するために、環境をモニターし、自らの体内をモニターし、これらの情報をシグナル分子に置き換え、全身で伝え合うことで、体づくりを丁寧に決めています。こうした植物の姿が、20年の研究によって分かってきました。シグナル分子の研究が進めば、私たちが植物の状態を理解し、適切にケアして育てることができ、さらにシグナル分子を適所で働かせることで、植物を環境に強くするといった利用法もできると期待しています。そして、研究の中で接木という技術にも出会いました。植物が本来持っている傷ついた組織を修復する能力を使って、2種類の植物をつなぐものです。研究の中で、接木が得意な植物を見つけ、その原因が分子レベルで分かってきています。接木を利用することで、暑さで乾燥気味な土地でも、乾燥に強い根をつかって農作物を育てたり、土壌や生態系への負担を減らすため、化学肥料や農薬の使用量を下限まで抑えて育てることができる種苗につなげたいと考えています。技術の革新は、科学的な深い理解を無くして一足飛びには進みません。相手は私たち人間と同じくらい複雑に進化した植物です。その植物の本質について科学することで、人類と植物との共生を進めていきたいと思います。
「金属と分子から組み上がるガラス材料」
京都大学高等研究院准教授 堀毛 悟史
物質は「結晶」と「非結晶」の二種類に分類され、ガラスは非晶質の代表例です。去る2022年は国連総会が制定した国際ガラス年であり、文明の中でガラスが果たしてきた役割と今後の社会における可能性が広く再認知されました。窓ガラスには主にセラミックスが用いられますが、金属、有機高分子、あるいはガス分子のような物質でもガラス状態は観測されます。一方でガラスという状態は固体なのか、液体なのか?という一見素朴な議論は解決されておらず、科学の未解決問題として多くの研究者が取り組んでいます。
私は、配位結合という化学結合の一種を用いて、金属と分子を無数につなぎ合わせて得られる軸組構造である配位高分子について研究してきました。無機-有機複合物質と捉えることができます。これらが示す美しい結晶構造と、金属イオンが示す鮮やかな色に魅せられて、研究の道へと進みました。この配位高分子研究は過去20年で大きく発展し、現在は結晶構造を自在にデザインでき、実用化もされている材料ですが、結晶以外の相、つまりガラス相の報告はありませんでした。配位高分子が持つ多彩な分子構造が反映されたガラスを作ることができれば、無機物や有機物とは本質的に異なる新しいガラスとして振る舞うことが期待されます。その動機とともに物質設計に望み、現在までに数十種類の配位高分子ガラスを合成してきました。金属と分子が織りなすこれらガラスは独自の構造と機能を示し、エネルギーや環境問題の解決に資する材料として期待されます。
規則性の高い構造を持つ結晶に対し、ガラスは乱れた構造を持ちます。ガラスの複雑な構造を制御し、材料としての特性を理解してゆくことはガラス研究の最も大きな目標です。配位高分子ガラスという新たな種類のガラスの研究を通して、私達もこの目標の実現に貢献してゆきたいと思っています。