ニュースレター No.31 会員寄稿
目次
会員寄稿
「西国」違い
揖斐 高 会員
日本文学専攻

昭和21年福岡県生まれ。 昭和46年東京大学文学部国語国文学科卒業。白百合女子大学文学部講師、成蹊大学文学部教授等を務め、平成29年日本学士院会員。紫綬褒章受章。近著に『江戸漢詩の情景―風雅と日常』(岩波新書)。
藤原などという姓ならばそんなことはないのだろうが、揖斐という比較的珍しい姓なので、古い文献で揖斐姓の人物に出会った時には、どうしても気になってしまう。例えば、平賀源内が世界地図などを絵柄にして焼いた源内焼の陶器を作る時に、陶土を天草から取り寄せようとした。源内は天草代官揖斐十大夫にそのことを願い出ようとしたらしい。この揖斐十大夫というのは旗本揖斐政俊のことで、明和4年(1767)に代官から西国郡代に昇格した。政俊の子孫はその後何代かにわたって西国郡代を勤めている。西国郡代の役所は豊後日田に置かれていた。儒者・詩人として活躍した広瀬淡窓・旭荘兄弟の実家は、豊後日田の有力町人で博多屋という屋号で手広く商売をしていた。『寛政重修諸家譜』に拠れば、揖斐政俊の男の徸俊が西国郡代だった頃、「豊後国日田郡其外村々富家の者より調達銀と名づけ、多分の銀子をださせ」たことがあったという。この時、郡代揖斐徸俊は「博多屋、おぬしも悪人よのう」などと嘯いて、広瀬家から「多分の銀子」を取り立てたのであろうか。それについては審かにしないが、私の家系は少なくとも江戸時代になってからは、この西国郡代の家系との直接的な繋がりはないことを、念のため付け加えておこう。
先ごろ、戦国時代から江戸時代初期までの武将の逸話や言動を集めた、岡谷繁美著『名将言行録』(明治2年成立)という本を読んだ。岩波文庫で8冊という大部なものだが、その巻42「徳川秀忠」に次のような一節があった。「耶蘇の教、東流せしより、邦人漸く之を崇信す。或人、秀忠に謂て曰く、邪教、国に害あり。漸く長ずべからずと。秀忠、其邪正を審にせんと欲し、揖斐半右衛門政吉を西洋に遣はし、其教を講習させける。政吉、西洋に在ること七年、尽く其の要領を得て還る」。
時代的にはこれより前に、九州の4人の少年や伊達政宗の家臣支倉常長がヨーロッパに派遣され、ローマ教皇に拝謁したことは知られているが、揖斐政吉という幕臣が将軍徳川秀忠の命でヨーロッパに派遣され、キリスト教を調査して7年後に帰国したなどという話は聞いたことがない。これが事実なら面白いことだと思い、半信半疑で少し調べてみた。
『寛政重修諸家譜』に拠れば、揖斐政吉という人物は先ほどの西国郡代の揖斐家とは同族だが別家の旗本である。しかし、この人物がヨーロッパに派遣されたという記事は『寛政重修諸家譜』には見られない。これに関わりがありそうなのは、『台徳院殿御実紀』附録巻3の、「当代に天主教御捜索厳重にして、揖斐半右衛門政軌に命ぜられ、西国にゆきてその法試みよとの仰奉りて、政軌彼地あること七年」という記事である。
『台徳院殿御実紀』附録では派遣されたのは揖斐政軌になっていて、揖斐政吉ではない。政軌は政吉の男で、ともに半右衛門という通称を名乗ったので混同が起きたのであろう。いずれであっても、問題になるのは派遣された先が、『台徳院殿御実紀』附録では「西国」になっていることである。『台徳院殿御実紀』附録のこの記事の典拠が『明良洪範』(江戸中期成立)であることは明示されているので、そちらを確認してみると、やはり「西国に在る事七年」とあった。
『名将言行録』の「引用書目」のなかに『明良洪範』は含まれており、『名将言行録』の揖斐政吉の記事が、『明良洪範』を典拠にしたことは間違いないであろう。『名将言行録』の著者岡谷繁美は、典拠にした『明良洪範』に「西国」とあったのを、つい「西洋」と読み替えてしまったものと思われる。中村敬宇の『西国立志編』(明治4年刊)のように「西国」が「西洋」(ヨーロッパ)を意味することはあるが、通常は「西国」といえば九州を含む日本の西部地域を広く指す。しかし、ここではキリスト教探索という目的があったということで、無意識のうちに「西洋」の方に引き寄せられてしまったのであろう。歴史的な事実としては、揖斐半右衛門は切支丹の動静を探るため密偵として九州に赴き7年間を過ごしたのである。それはそれとして大変なことだが、残念ながらヨーロッパに渡ったわけではなかった。
いささか拍子抜けする結論に辿り着いたが、揖斐姓への関心から、誤伝というものがどのようにして発生するのかという、ささやかな一例を知ることができたのを僥倖とすべきであろうか。
会員寄稿
拡がる二次元の世界
安藤 恒也 会員
物理学専攻

昭和20年山形県生まれ。 東京大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。東京大学理学部助手、筑波大学物理工学系助教授、東京大学物性研究所教授、東京工業大学大学院理工学研究科教授等を歴任。令和3年日本学士院会員。仁科記念賞、日本学士院賞、江崎玲於奈賞、NIMS Awardを受賞。
固体は電気の通しやすさによって金属と絶縁体に分類されます。電流を運ぶキャリアーを励起するのに大きなエネルギーが必要なのが絶縁体、多数のキャリアーが存在し、容易に電流を流せるのが金属です。その中間にあるのが半導体で、通常はほとんど電気を通しませんが、いろいろな方法で正あるいは負の電荷を持つキャリアーを作り出すことができます。
半導体の表面に絶縁体を挟み、ゲートと呼ばれる金属電極を貼り付け、ゲートと半導体の間に電圧を加えます。電圧がしきい値を超えると、電圧の向きにより負電荷、あるいは正電荷のキャリアーが半導体の絶縁体との界面付近に誘起され、電流のオン・オフが制御できます。半導体としてシリコン(S)、絶縁体としてその表面に形成された酸化物(O)、金属(M)の頭文字からMOS電界効果トランジスタと呼ばれます(図1参照)。1960年代初期にIBMが大型計算機に使いはじめて以来、パソコンやスマホなどのさまざまな情報機器の急激な発展を担ってきました。界面付近に引き寄せられたキャリアーは面に沿った運動のみが許される二次元系となります。

磁界を印加するとキャリアーは磁界と垂直な面内で円運動を行います。そのため、電流と垂直方向に磁界を加えると横方向にも電流が流れます。すなわち、細長い短冊状の試料に電流を流すとその垂直方向に電圧が発生します(図2参照)。このホール電圧は通常磁界の強さに比例し、磁界を測定する磁気センサー、ブラシレスモーター、電流がつくる磁界を検出する電流計など、さまざまな用途に使われます。

磁界が強くなると円運動が量子化され、離散的エネルギーを持つランダウ準位が形成されます。通常の三次元では磁場方向の自由な運動が残りますが、二次元では原子のように離散的なスペクトルとなります。この特異な系が示す電気伝導現象に興味を持ったのは、私が大学院のときでした。電界方向の伝導率のピーク値が自然定数の(整数+1/2)倍、垂直方向のホール伝導率がスペクトル・ギャップ中で自然定数の整数倍になることを計算で示しました。残念ながら、当時の知識ではこの不思議な結果を完全には理解できませんでした。
その後、実験でホール抵抗(ホール電圧と電流の比)が自然定数の整数分の一の階段状になることが示され、量子ホール効果と呼ばれるようになりました(1985年ノーベル物理学賞)。これはホール伝導率が自然定数の整数倍になることに対応します。量子化ホール抵抗は抵抗標準として使われるようになり、世界中の研究者の努力により現象の本質が明らかになってきました。特にホール伝導率がトポロジカル普遍量と呼ばれる整数となることが示されましたが、トポロジーの重要性はその後の物理学に大きな影響を与えました (2016年ノーベル物理学賞)。現在、トポロジカル絶縁体を始めとして新しい物質の研究が大きく進展しています。
酸化膜は構造の乱れが大きいため、二次元キャリアーの散乱を引き起こします。磁界が弱い場合、通常の物質の抵抗は磁界でほとんど変化しませんが、この系では大きく減少することが発見されました。散乱が弱い場合には絶対零度でも抵抗は有限にとどまりますが(非局在)、強い場合には無限大となること(局在)が知られています。長い間未解決であったこの局在効果の研究を大きく発展させる契機となったのがこの実験です。
結晶成長技術の発展により、半導体GaAsとAlGaAsの界面に良質の二次元系が作られました。そこではキャリアーの間の相互作用(電荷同士の反発)が重要な役割を果たし、分数量子ホール状態が実現します(1998年ノーベル物理学賞)。分数量子ホール状態では分数電荷を持ち分数統計に従うなど、二次元特有のさまざまなエキゾチック粒子が現れます。
この系を使い低雑音で高周波特性にすぐれた高電子移動度トランジスタが作られました。その結果例えば、衛星放送用のパラボラアンテナは直径1メートルから30センチ程度まで小さくなり、狭いベランダにも簡単に設置可能になりました。また、半導体の組み合わせはいろいろですが、自動車用のレーダーや携帯電話基地局などに使われ、重要性が増しています。
層状物質のグラファイトを剥離することで1原子層からなるグラフェンも作られました(2004年ノーベル物理学賞)。それ以前に発見されていたカーボン・ナノチューブはこのグラフェンの円筒構造と理解することができます。現在、さまざまな二次元物質が作られ、二次元の世界はますます拡がっています。