ニュースレター No.30 受賞者寄稿
目次
恩賜賞・日本学士院賞受賞者寄稿
「大脳シナプスの形態可塑性法則の発見」
東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)特任教授 河西春郎
日本学士院で厳かに進行した授賞式の後、天皇皇后両陛下から研究の背景や意義について正確な御下問を賜りました。当初1分間と伺っていたところ7分近くお時間をいただきました。本稿では、その幾つかにお答えする形で、私の仕事を紹介いたします。
天皇陛下「とても面白いことをお見つけになったと思いますが、今後の脳の研究において、どのように役に立つと思われますか。」
大脳のシナプスの運動は脳機能の核心部分ですので、その性質を知ることが脳機能やその疾患の理解に必須と考えています。
皇后陛下「とても興味深い研究でした。どういうことで、こういう分野に進まれようとしたのですか。スパインは100兆個もあるのですね。」
私の専門は神経科学で、心を科学的に理解することが目標です。我々の脳の神経細胞は活動電位という電気信号を用いますので、脳内では精神活動に強く関連して電気信号が起きます。しかし、『我考える故に我あり』という様に、脳の活動電位は、それ以外に何か大事なことを起こしています。それが何かについては、脳のシステム的な性質に起源を求めることが多いですが、細胞という生命の単位に起源を求めるのも有力です。私は、この細胞起源の可能性を念頭において、新しい顕微鏡手法を開拓して研究を進めました。そして20年経った後、脳の代表的なシナプスであるスパインシナプスの運動性と機能変化を発見しました。スパイン(棘突起)は心の正体のような神秘的な形態をしていますが、今ではこのスパインの増大運動が学習・記憶の担い手と考えられるようになりました。シナプスには、精神疾患関連分子が集積し、また、アクチン線維という運動するためのタンパク質が高度に集積しています。更に、20年研究を推進した結果、増大運動の際には平滑筋の収縮と同じ位の力で、シナプス前部を押し、前部機能を増強するのを見つけました。即ち、大脳のシナプスは運動して、その力をシナプスの前部に「力学伝達」します。言わば、約100億の大脳神経細胞はそれぞれ1万本ある手(総数100兆)で繋がって、短い記憶情報を保持している様です。人工知能は情報処理に力を使いませんが、本当の知能は力やそれによる変形というダイナミズムを使うのです。何故でしょうか、謎がつきません。
天皇陛下「その顕微鏡を作るのはご苦労でしたでしょうね。」
日本の適切な研究助成により世界的に見て最強の設備を作り、優れた共同研究者の努力で発見に至りました。
多くの方の長年ご支援により研究を進められたことに深く御礼申し上げます。
日本学士院賞受賞者寄稿
『日本経済の発展と財閥本社—持株会社と内部資本市場』
東京大学名誉教授 武田晴人
明治維新以降に急激な発展を遂げてきた日本経済の主役は財閥でした。財閥は成長産業の交替に柔軟に対応しながら、子会社による多角的事業経営を推進し、長期にわたって日本経済の中枢部分を占め続けました。そのために、財閥は日本の経済史・経営史研究の主要な分析対象となってきました。
財閥は、三井・三菱・住友などを代表例として図のように、同族を出資者とする持株会社の下に、多数の子会社を擁するピラミッド型の重層的な組織をもっています。これまでの研究では、持株会社が子会社の経営を支配する組織とみる見解と、子会社に分権化されていたとみる見解の、対立する学説が提示されています。
これに対して、私は「なぜ財閥が経済発展に柔軟に対応して日本経済に君臨し続けたのか」を問い、これに実証的な根拠に基づく解釈を示そうとしました。そのため、まず財閥同族と持株会社との関係に注目しました。財閥同族は、全額出資の持株会社に対して、必要な資金の調達に責任を負い、受取配当を抑制し、事業分野への再投資を優先することを原則としていました。
この出資者の態度は、持株会社や事業子会社の専門経営者に自由度を与え、長期的な視点に立つ事業計画の推進を可能にしていました。その際、財閥本社は子会社の事業計画に対して提供できる資金をいかに有効に配分するかが課題でした。そのために役割分担や組織のあり方が問題になります。私は、持株会社と子会社の関係は、支配と従属という縦関係ではなく、事業計画の立案に責任を持つ子会社と、資金配分に責任を持つ持株会社という水平的な役割分担があったと考えています。
この水平的関係を支えたのが、財閥の「内部資本市場」という仕組みです。内部資本市場とは、外部の株式市場などとは独立して、持株会社が(財閥内の利益のプールや所有する株式などの売買を通して獲得した)内部資金を、子会社の事業計画に対応して組織的に配分するものです。事業の具体的な内容については、子会社の専門経営者が熟知していますから、その計画を尊重しながらも、持株会社はそれらの事業計画を比較考量し、コンテストのような形で望ましい計画を選択していきます。これが産業発展に柔軟な対応ができた理由です。それは、持株会社が、外部の資本市場よりはるかに濃密な情報を日常的報告を受けていたために、資本市場のもつ「情報の非対称性」を回避し、計画選択・資金配分の有効性を高めたからでした。この知見は、現在の株主主権論に対して、まったく異なる関係が効率的な企業経営の条件になりうることを示唆しています。
日本学士院エジンバラ公賞受賞者寄稿
「分子レベルの高度同位体比分析法を駆使した生物界変動解析法の構築と応用」
海洋研究開発機構・海洋機能利用部門長 大河内直彦
自然界で起きる「マクロな事象」には、単なる観察では深く理解できないことが数多くあります。こういった問題には、しばしば物質科学的アプローチが効果的です。ただし、単なる要素還元主義ではなく、マクロな知見をうまく取り入れて自然を理解したいと私は常々思ってきました。特に私は、自然という多様な物質の複雑な混合物から、クロロフィルやアミノ酸といった特定の化合物を単離して、それらの炭素や窒素の同位体組成に着目してきました。炭素や窒素の同位体である13C、 14C、 15Nの存在比を正確に計測し、自然界で起きる様々なプロセスが統計熱力学のルールに従って変動することを利用して、自然を理解しようとするわけです。
自然界から単一の物質を単離することは、さほど難しいことではありません。しかし、同位体比を変えずに物質を単離することは実は容易なことではありません。また、自然から小さなピースを取り出すため、時に非常に微量な物質を計測せねばなりません。私の研究グループでは、特定の化合物の単離法や微量物質の同位体比計測技術を開発し、これまで誰も測れなかった天然有機分子の同位体組成を多数明らかにしてきました。海で光エネルギーを集める各種クロロフィルや、それが地質的時間を経て変成されてできる金属ポルフィリンなどはそういった例です。そこに刻まれている炭素・窒素同位体記録を読み解き、例えば、深海で時に嵐が吹き荒れていることや、シアノバクテリアが石油の重要な起源生物であることを明らかにしました。
また私の研究グループが行った研究成果の一つに、アミノ酸の窒素同位体比による生物の食性解析法の確立があります。この方法論を用いて、例えば,ウナギの稚魚がマリンスノーを食べていることや、内陸縄文人のタンパク源の3~4割が植物タンパクであったことなど多様な問いに答えることができました。このように全く異なる分野のトピックが、一つの方法によって解き明かされていくことはまさに、物質科学を支配するルールは同じという(ごく当たり前の)事実の裏返しでもあります。海の小さな生き物が触媒する化学反応であれ、地球サイズの事象であれ、分子や原子、そして同位体という物質科学の基礎単元に立ち返ることによって、深く理解することができるのがこの研究の醍醐味です。今後もマクロとミクロの橋渡しをすべく、研究に邁進していく所存です。