ニュースレター No.29 受賞者寄稿
目次
日本学士院学術奨励賞受賞者寄稿
「フロッケ・エンジニアリングと状態制御」
東京大学物性研究所教授 岡 隆史
今回このような栄誉ある賞をいただけたことに心より感謝したいです。私が研究しているのは物性物理と呼ばれる領域です。物理の中では、宇宙や素粒子などと比べて、ピンとこない、イメージがわかないと、よく言われます。面白いことに物性分野には決まった研究対象がありません。電気抵抗がゼロの超伝導や、摩擦がゼロの超流動などが輝かしい発見事例と言えますが、研究対象はその時代や、個々の研究者によって自在に変化していきます。例えば量子コンピューターの基盤となる量子素子や、素粒子物理で登場するディラックやワイル粒子が実現する量子物質、あるいは、生体現象なども「物性分野」で研究されています。ある意味、周辺の環境に合わせて自らの形を変える粘菌のような捉えどころの無い、しぶとい分野です。では、核がないのかと問われますと、実はいくつかの大切な核があります。その一つが「多体効果」です。物質の中には電子やスピンなど、ほぼ無限に近い多数の自由度がありますが、それらが一斉に協同する現象が、上記の超伝導や超流動の研究を深める中で理解されるようになりました。
私は多数の自由度を自在にコントロールする方法を考えてきました。特に、電子でいえばレーザー電場などの外力を使うことで新しい量子状態を人工的に誘起することに興味を持ってきました。その中で発見したのがフロッケ・トポロジカル状態です。ディラック電子などに円偏向レーザー光を照射すると電子は光電場の衣をまとい新たな量子状態が実現します。そこでは電場と垂直方向へ電流が流れる量子ホール効果が生じるため、試料中央部は絶縁的でありながら、端部では一方向に電流が流れるトポロジカル物質の一種となることを示しました。このような物質の制御法はフロッケ・エンジニアリングと呼ばれとても汎用性が高い方法であると考えられています。私自身は、電子、スピンだけでなく、生体を含めた様々な系に適用できると考え、現在も研究を進めているところです。
「相互に有益な比較法研究を目指して」
東北大学大学院法学研究科教授 桑村 裕美子
労働法では、一律の規制では多様性に対応できないとして、労働者保護のために設定された法律上の最低基準が、労使による例外設定を可能とする枠組みへと修正されつつある。しかし、これまでの改正には一貫性がなく、規制が過度に弱められているとみられる例もあった。そこで、根本的な検討を行う必要性を感じ、労働条件決定において国家と労使はいかなる役割を果たすべきかという視点で、望ましい労働者保護規制のあり方を体系的に分析したのが私の研究である。
この研究の過程では、理論だけでは説明できない複雑な法状況を前にして、呆然と立ち尽くすしかない時期もあった。結果的に、本研究の最終成果をまとめあげるまでに約10年かかったが、その間の法制度や学説の展開を整理・分析することにより、一時的な現象やその時々の論調に左右されない根本部分の解明が可能となった。現在は、本研究により得られた成果を、労働者保護に限られない多様な目的をもつ労働立法や、労使合意に対する司法審査のあり方などに応用する作業に取り組んでいる。
私はこれまで、比較法という研究手法を用い、他国の法制度から様々な学びを得てきたが、日本の議論が他国の問題解決に資するケースもあると感じている。例えば、公益通報者の保護に関しては、日本がドイツよりも先に立法を行っており、そこでの議論はドイツでも参考となりうる。また、デジタル化の進展にともなう新たな就労形態の取扱いや、現在のコロナ禍における労働者の所得保障のあり方などは、世界の共通課題であり、各国の知見を共有することで問題解決の手がかりを得られる可能性がある。そのため今後は、外国から学ぶだけでなく、相互に有益な示唆をもたらし得る比較法研究を目指していきたい。これまで比較法に関心がなかった海外の研究者にも日本法に関心をもってもらえるように、日本法の経験を海外に向けて発信する取り組みを今後も続けていく。
「ロシアとイスラーム世界の絡まり合いについての総合的研究」
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授 長縄 宣博
私がロシアとイスラーム世界の関係に好奇心を抱いたのは、30年前の中学生の頃です。その当時の世界では、東欧の革命、湾岸戦争、そしてソ連崩壊という地殻変動が進行し、日本も昭和から平成に時代が移っていましたから、世界が渦を巻いて不可逆的な変化を遂げていることが片田舎でも日々感じられました。なぜ共産圏と中東が同時に激動を経験しているのか。ソ連やイラクは悪者扱いだが、本当にそうだろうか。こうした疑問が頭の片隅に残っていたおかげで、大学での研究対象として、ロシアとイスラーム世界が交わるヴォルガ・ウラル地域に辿り着いたのだと思います。
この地域のイスラーム教徒は、16世紀半ばにロシアに征服されて以来、450年にわたりロシアと苦楽をともにしてきました。とりわけ私に興味深く思えたのは、ロシア帝国最後の十年です。この時代を理解するには、少なくともそれ以前100年ほどの帝国統治の仕組みと変容を知るだけでなく、さらにそれに続く革命とは何であり、ソヴィエト連邦とはどのような国家なのかを問う必要があります。そうすると、帝国秩序はその崩壊が予め運命づけられていたのではなく、ロマノフ王朝が退場するまで、様々なレベルの権力と臣民、そして臣民の間での交渉が展開される、しなやかな持続性を持っていたことが分かります。ヴォルガ・ウラル地域のイスラーム教徒たちも、多様性を容認する統治の仕組みをできる限り自分たちの利益を最大化する形に改革しようとしていたのです。
とはいえ、ロシア帝国の崩壊とはどのような事態であり、その跡地に再編されたソ連とはどのような広域秩序だったのでしょうか。折しも、アメリカの覇権は中東で顕著に減退し、ロシアは今後の世界秩序のあり方を左右する存在になっています。再びロシアと中東が世界秩序の地殻変動の震源となっている今、私は中学生の頃抱いた素朴な疑問に立ち戻らなければならないと考えています。
「百聞は一見に如かず」
東北大学多元物質科学研究所教授、理化学研究所 放射光科学研究センター チームリーダー 南後 恵理子
私が修士の学生だった頃、ある一つの論文に衝撃を受けた。それは、白色X線を使ったタンパク質の結晶解析の論文で、タンパク質が起こす反応過程を捉えていた。当時の私は、結晶解析を始めたばかりで、立体構造の決定にさえ苦労していた。通常のX線結晶構造解析は“静止した”状態の構造を決定するものであり、素早く変化する様子を観察するなど夢のような話であった。元々私は結晶学分野の出身ではなく、天然物化学分野で抗生物質生合成について研究していた。天然有機化合物は複雑な骨格を持っており、それがどのようにしてタンパク質(酵素)によって作られていくのか知りたいと思っていた。
いつか白色X線を使いたいと思っていたが、2000年前後に盛んに行われていたこの方法は、技術的な難しさなどの理由から、その後はあまり行われなくなった。博士課程を卒業後、私は天然物化学の講座で助教となっていたが構造解析を極めたく、辞して放射光施設にポスドクとして移った。異分野からきた自分が技術開発に関らせてもらえるとは期待していなかったが、幸運なことに2012年から始まったX線自由電子レーザー(XFEL)のプロジェクトで採用され、新たなタンパク質結晶構造解析法の開発を行うこととなった。XFELの強みはフェムト秒の高強度X線パルスにより、結晶内分子の損傷が顕在化する前に回折像が得られること、素早い構造変化や反応を捉えることにある。その光源特性により、従来の測定手法と同様には測定できない難点があり、技術開発は容易ではなかったが、最終的には測定技術を確立するに至った。2016年には、光により水素イオンを細胞外へと組みだすタンパク質を用いて、光励起後ナノ秒からミリ秒後のイオンを輸送する過程を捉えた。初めてその構造変化を目の当たりにした時、夢が現実になったと感慨無量であった。今まで、反応機構を提唱するには多くの傍証を積み上げていくのが常法であったが、まさに“百聞は一見に如かず”である。今後も多くの生体高分子の機構解明に貢献していくべく、精進していきたい。
「次世代有機EL材料の開発」
関西学院大学大学院理工学研究科教授 畠山 琢次
有機化学の歴史は、1828年のFriedrich Wöhlerによる尿素の合成に遡り、その後の合成染料や合成樹脂(プラスチック)などの発明を通じて、近代文明の発展に貢献してきました。20世紀後半には、優れた医農薬品が開発されるようになり、平均寿命の伸長や食料生産を支えています。これらの用途には、元来、自然界から得られる材料(天然有機物)が利用されていましたが、より優れた機能を有し、大量供給が可能な化学合成品によって急速に置き換えられました。例えば、藍に対するインディゴ、木綿に対するポリエステル、サリチル酸に対するアスピリンといった合成品です。一方、有機化学の発展は、天然有機物では不可能だった技術の実現にも繋がっています。その一つが有機EL(Electro-Luminescence)です。有機物は、基本的には絶縁体であり電気は流れませんが、天然有機物では一部分にしか存在しないπ電子で分子全体を覆うことで、電気を流す物質群が創出されました。更に、これらをナノメートル(nm)オーダーの薄膜にすることで抵抗を下げ、有機物に電流を注入し光を取り出すことが可能となり、有機ELディスプレイの実用化に至りました。しかし、材料の安定性の問題から、使用できる元素が限られており、輝度や電力効率が頭打ちとなっていました。これに対し我々は、有機EL材料に用いることができなかったホウ素原子を、窒素原子や酸素原子と共に分子骨格内部に導入する手法を開発することで、実用レベルの安定性を有する新たな材料群を創出しました。さらに、ホウ素と窒素とを特定の位置に配置することで、従来材料を大きく上回る色純度を示す青色発光材料「DABNA」を開発することに成功しました。その後、多くの企業でDABNAの分子設計を踏襲した研究開発が進み、有機ELディスプレイの輝度や電力効率の向上、ブルーライトの低減に貢献しています。
「コロナ禍を生きる研究者として」
カリフォルニア大学リバーサイド校昆虫学研究科准教授 山中 直岐
2020年に全世界に拡大した新型コロナウイルスによるパンデミックは、浮世離れした存在と思われがちな我々研究者にも多大な影響を及ぼしました。勤務先のキャンパスの閉鎖に伴う研究活動の停止は幸いにも一時的なものでしたが、娘の通う幼稚園・小学校では、1年以上に渡って完全に対面授業が中止されました。同じく大学に勤務する妻と私は公平に勤務時間を半分ずつに分け、私は文字通り毎日ステイホームしている娘と、算数の問題を解いたり、外に出て体を動かしたり、娘の好きなおままごとで遊んだりしながら、折に触れてチェックするスマートフォンを通じて、ここアメリカで繰り広げられる様々な出来事を目の当たりにしてきました。
コロナ禍のこの国では、圧倒的な科学の力が人々の命を救う感動のドラマと、科学を軽視する無知な暴君によって、失われる必要のない沢山の命が失われる悲劇が並行して巻き起こっていました。私はシルバニアファミリーのウサギを片手に、研究者・教育者として自分がなすべきことは何か、という自問自答を繰り返しました。驚くべき短期間でワクチンが開発され、安全性と有効性が確認された上でそれが瞬く間に人々に行き渡った事実は、基礎科学研究の重要性を見事に証明しています。一方で、そのワクチン開発で中心的な役割を果たしたこの国においてワクチン接種率が伸び悩んでいる現状は、どんなに素晴らしい研究成果も、科学への信頼と科学教育の普及なくしては世の中の役には立たない、という大切な教訓を我々に与えてくれています。我々大学人が、研究と教育を並行して行わなければならない理由も、正にここにあるような気がします。
このコロナ禍にこのような栄誉ある賞を頂いたことで、研究・教育を通じて世の中の役に立ちたい、という思いを新たにしています。今後とも研究者・教育者としての職責を全うすることで、科学の恩恵を社会に還元する役割を果たしていきたいと思っています。