ニュースレター No.29 会員寄稿
目次
会員寄稿
ウクライナ侵攻
佐々木 毅 会員
政治学専攻
昭和17年秋田県生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部助教授・同大学院法学政治学研究科教授を経て、東京大学総長、国立大学協会会長、学習院大学法学部教授、学士会理事長等を歴任。吉野作造賞、和辻哲郎文化賞、読売論壇賞、紫綬褒章、文化功労者、文化勲章、瑞宝大綬章を受賞・受章。平成23年より日本学士院会員。令和3年11月より日本学士院幹事。
歴史はしばしば残酷な犠牲を伴いながら動き出す。戦争はその最たるものであり、われわれはウクライナからの悲惨なニュースを毎日耳にしながら動き出した歴史の実像を呆然と眺めている。それにつけても、1989年のベルリンの壁崩壊後の一連の出来事は同じ歴史の転機であってもウクライナで起こっていることと何と対照的であったことか。今、ヨーロッパは歴史の歯車によって引き裂かれ、のたうち回っている。人類はコロナ禍のストレスに加え、武力衝突を伴う深刻な分断を抱え込むことになった。この数年のうちにわれわれは「二重の分断」に引きずり込まれてしまった。これに米中対立を加えるならば分断は更に深くなる。新しい亀裂が誕生し、冷戦後約30年続いた一時代ははっきりと終わりを告げている。
冷戦後の世界はグローバルな市場経済と民主政を制度上の標準装備とする時代であり(1989年の精神)、民主政の中心テーマが「小さな政府」であったようにグローバルな市場経済が主目的であった。その意味で政治や軍事はあくまでも補完的な役割に甘んじてきた。冷戦後、世界は民主化の波に洗われ、多くの新興民主政が誕生したが、複数政党制や自由主義の伝統の乏しさもあって、民主政は専ら強権政治の道具に変質する例が目立つようになった。プーチン大統領のロシアはその一例である。そこでは富の極端な集中と腐敗の蔓延が指摘されている。
他方、先進民主政の国々でも中下層階層を中心にグローバリゼーションに対する反対の声が高まってきた。特に、移民問題はポピュリズムの台頭の大きな契機となった。西欧ではポピュリズムは反EUという形を取り、アメリカではアメリカ第一主義という形で現れた。多くのポピュリストにとってプーチンはその卓越した能力の故にアイドル的存在であった。そして先進民主政の内部の動揺をまるで狙いすましたように、コロナウイルスとプーチンが襲いかかったのであった。
今度のプーチンによるウクライナ侵攻をめぐっては、ウクライナがNATO(北大西洋条約機構)のメンバーでないこともあって、NATO側はウクライナでのロシア軍との接触を回避することを初めから明言している。軍事的な抑止に代わって抑止機能を期待されたのが未曽有の規模での経済制裁であった。しかしここに来て戦線が膠着状態となる中で、ロシア側の更なる軍事的エスカレーション(生物化学兵器や核兵器の使用を含む)の可能性が指摘されている。それに備え、軍事的抑止論が浮上する可能性があるし、人道的危機の深刻化の問題もある。NATO側がこうした状況の中でどこまで当初の軍事的不介入路線を維持できるかが改めて問われることになりそうである。
この侵攻の帰趨は不透明であるが、幾つかの点ははっきりしている。第一に、NATO諸国とロシアとは直接戦闘状態に入っていないが、両者は事実上戦争状態に入りつつあるのではないか。何よりも今度の侵攻に対する最大の制裁である経済制裁は既に発動され、殺傷能力の高い武器もウクライナに相次いで供与されている。中国の帰趨次第であるが、これら西側の作戦の行き着く先はプーチンのロシアの孤立化と欧州における軍事行動を伴う政治的長期戦であろう。
第二に、ウクライナ侵攻はプーチンの目的が「力による支配」の拡大以外の何物でもないことを明らかにした。それはかつてのソ連の掲げていた社会主義と比べても魅力に欠ける。その上、厳しい経済制裁によって経済システムが変調を来たし、転落する可能性も指摘されている。従って、プーチンのウクライナ侵攻はロシアの将来を自ら閉ざす選択を行なった可能性が高い。
第三に、史上最大規模の難民の発生やエネルギー価格の高騰などに起因する社会的・経済的混乱、国際情勢の不安定化は避けられない。
コロナウイルスの流行は政府がさまざまな形で自由に介入し、規制する傾向を醸成してきたが、ウクライナ侵攻はこれまでなかった規模での経済制裁の動員を招き、政治が経済を手段として使う時代の到来を告げた。政治はグローバルな市場経済秩序の創出に奉仕するのではなく、政治的目的のために経済秩序を使いこなす時代に入りつつある。
プーチンは歴史に逆行する大国主義によって冷戦後の時代に終止符を打った。そして歴史は動き出した。一旦動き出した歴史の動きは速い。最大の注目点は、プーチンの政治ウイルスがどこまで伝染するかである。
(2022.3.24記)
会員寄稿
灌漑のはたらき
丸山 利輔 会員
農業農村工学専攻
昭和8年岐阜県生まれ。京都大学農学部農業工学科卒業。農林省農業技術研究所農業土木部農林技官、京都大学農学部教授・京都大学農学部長・大学院農学研究科長、日本大学生物資源科学部教授、石川県農業短期大学学長、石川県立大学学長を歴任。京都大学名誉教授、石川県参与(県立大学担当)。
私の専門は灌漑排水である。作物の生育に好適な土壌水分条件を実現するための単純な水制御のための技術に過ぎない。しかし、この技術の適用による効果は絶大である。食料の生産性向上のみでなく、住民の生活改善に大きな役割を果たし、これが世界の平和へとつながる。
最近約60年間の世界の人口(1961年30.9億人:2019年77.1億人)と灌漑面積(1961年161百万ha:2019年342百万ha)を図に示したが、両者はほぼ並行して増加している。両者が予想以上に密接な関係を示したことに筆者は少なからず驚いている。この理由は、アフリカ大陸の人口の急激な増加、開発途上国の灌漑施設の整備が大きく貢献していると思われる。また、穀物生産量(1961年876百万トン:2019年2978百万トン)は灌漑面積とほぼ並行して増加しており、穀物生産は灌漑によって強く支えられている。すなわち、近年の人口増加に対応できる穀物供給は灌漑によって強く支持されているといえる。しかし、これは何も灌漑の直接的な効果ではない。灌漑ができる農地の条件が整うと、新しい作物・栽培技術・品種の導入が可能となり、穀物の生産性が飛躍的に向上することに起因している。
灌漑を目的とした農村地帯への水の供給の効果は食料の生産性向上に役立つのみではない、農村地帯の飲料水の供給、下水の整備など生活用水の供給も同時に行うことができる。この効果は衛生・教育にも及ぶ。世界の乾燥地の中で、これまで飲料水を求めて1km以上の遠くから水を運ばなければならない人口は約5.3億人と試算されている。水運びは子供の仕事であるため、学校に行けない子供も発生する。また、飲料水が得られないのみでなく、下水も整備されないため、不衛生となり各種の病気や伝染病も発生しやすい。このように、灌漑用水の供給は、住民の生活と密接にかかわっている。
2019年12月4日、アフガンで凶弾に倒れた医師、中村哲氏の例を挙げよう(中村哲『医者、用水路を拓く』石風社)。同氏は「100の診療所よりも1本の用水路」を合言葉に、医療活動より先に灌漑用水の確保が大切なことを主張し、これを実証している。地球温暖化により積雪水資源が減少し、地下水源が枯渇、河川取水に依存しなくては灌漑水が確保できない状態のアフガン・クナール川の用水路開発である。郷里・福岡県山田堰を見本に、斜め堰による取水口を設置し、現地の条件に合った取水施設の機能維持と洪水排除に腐心、水制工による澪筋の固定、蛇篭による用水路の護岸など現地に適合した灌漑施設の設置に尽力した。この工事により安定した灌漑用水が確保され、安定した小麦の生産が可能となり、この地域の農民の生活が保障された。この事業により、厳しい干ばつのため農村を離れた農民の回帰を促し、農民から厚い信頼を得た。まさに、実効ある平和活動の見本である。このように「灌漑問題は、貧困、環境、農業、エネルギー、教育などの分野と複雑に拘わり、世界の紛争と平和に深い関係を持っている。
しかし、灌漑排水は、科学的には、自然の水循環を補完する技術でもある。したがって、この技術は自然の摂理を超えてはならない。自然の摂理を超えれば自然からまた大きな反発を受ける。たとえば、沙漠の開発による緑の沃野の造成は、長年の間に塩類集積の洗礼を受ける可能性は否定できない。沙漠の植林は蒸発散の増加を招来し、地下水源の消費を増大する可能性を孕んでいる。Small is beautiful が肝心である。