ニュースレター No.28 受賞者寄稿
目次
恩賜賞・日本学士院賞受賞者寄稿
「生殖細胞の発生機構の解明とその試験管内再構成」
京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点長 斎藤通紀
私達ヒトは多くの細胞が集まることで成り立つ多細胞生物です。ヒトを構成する細胞の数はおよそ60兆、その種類は古典的には約200種類と言われてきました。最近では、一つ一つの細胞の中で働く遺伝子の種類(少なくとも20,000個以上あります)や量を決定する技術が発展し、細かく分ければもっともっと多くの細胞種が存在することが明らかになっています。
一方で、これら数多くの細胞も、非常に大まかに分類すると2種類の細胞に分けることが出来ます。一つは体細胞と呼ばれ、神経や筋肉、骨、血液や腸管等、私達の体を構成する細胞です。体細胞は、私達が環境に適応し秩序だって生きていくために必須な細胞です。もう一つが、生殖細胞と呼ばれ、精子や卵子に分化し、それらが融合することで次の世代を形成する細胞です。すべての体細胞はその世代限りで死滅してしまいますが、生殖細胞は次の世代、さらに次の世代と半永久的に新しい生命を生み出し、私達の遺伝情報を継承します。多細胞生物の起源から遡ると、気の遠くなるような長い時間の中で、生殖細胞を介して生命の連続性が保証され、また生殖細胞に起こる遺伝情報の変異とその環境による選択により、地球上における生物の多様性が形成されて来ました。
生殖細胞の研究は、精子や卵子をどう培養したらうまく受精が進むか、受精卵をどう培養したら胚の発生がうまく進むか、のような研究を中心に発展してきました。これらの研究は、ヒト体外受精法の確立につながり、また、受精卵を培養した初期胚からの胚性幹細胞(embryonic stem cells: ES細胞)の樹立や、その研究が発展し、人工多能性幹細胞(induced pluripotent stem cells: iPS細胞)の樹立につながっています。私は、「どうして生殖細胞だけが遺伝情報を継承し、新しい生命を形成できるのか ?」に興味を持ち、生殖細胞の研究を行ってきました。私達の研究グループは、マウスを用いて、精子や卵子の起源となる始原生殖細胞の形成機構を解明し、その知見に基づき、マウスES細胞・iPS細胞から始原生殖細胞様細胞を試験管内で誘導、それらから精子・卵子、さらに健常な産仔を作出することに成功しました。また、マウスやサルの知見を応用し、ヒトiPS細胞からヒト始原生殖細胞様細胞、つづいて初期卵母細胞の誘導に成功しました。
試験管内で生殖細胞を誘導する私達の研究は、生殖細胞が次の世代を形成するために必須な遺伝子発現調節機構であるエピゲノムリプログラミングや、遺伝情報の多様性を形成する減数分裂進行機構等、生命の連続性を保証する機構の解明につながっています。また、ヒト生殖細胞試験管内誘導研究は日々発展中で、私達の研究は、ヒトや霊長類の特性・その進化機構の解明、不妊や遺伝病・エピゲノム異常の原因究明と新しい生殖医学の可能性を展望として拓きました。今後も生殖細胞の研究に邁進する所存です。

斎藤受賞者

日本学士院エジンバラ公賞受賞者寄稿
「熱帯病原性微生物の生存および拡散戦略の解明—寄生虫の多様な環境適応機構—」
長崎大学大学院熱帯医学・グローバルヘルス研究科長・教授 北 潔
人類の歴史は感染症との闘いの歴史である。近代医学の発展はヨーロッパの人口を半分近くまでに減少させたペストを抑え込み、天然痘を撲滅した。しかしAIDSや新型インフルエンザ、エボラ出血熱など新たな感染症が出現し、眠り病などのトリパノソーマ症やマラリア、また住血吸虫やフィラリア(糸状虫)などの寄生虫症は依然として熱帯を中心に多くの人々の生活の質を低下させ命を奪っている。中でも薬剤耐性の細菌やマラリアなどの病原体の拡散は高速・大量移動を可能にした交通機関の急速な発展や地球温暖化により極めて許容しがたい状況となっている。そして今、世界は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに曝され、発生から一年半以上経ってもその終息の目処は立っていない。
病原体にはウイルス、細菌、寄生虫の3種があり、タンパク質であるプリオンを入れる場合もある。特に寄生虫は宿主である哺乳類と同じ真核生物であり、宿主と生物学的に近いことから人体に有効な寄生虫症のワクチンは皆無であり、特効薬も非常に少ない。寄生現象は生物間相互作用の典型的な例である。自由生活型の祖先から出発し寄生生活に移行後の進化の過程において宿主内の環境に適応し、宿主特異性や臓器特異性をそなえた種々の寄生虫が成立したと考えられる。この点から寄生虫は真核生物における適応現象の極めて良い研究対象でもある。エネルギー代謝の面から見てみると、寄生虫はそのミトコンドリアにおいて多様な呼吸系が機能し、細胞質の酵素と協同しつつ環境の変化に対応してエネルギー代謝を維持し生存、増殖している。さらにある種のがん細胞が寄生虫と類似のエネルギー代謝機構によりその特殊な環境に適応し増殖していることが判ってきた。そしてこれらの呼吸鎖は宿主と大きく性質が異なることから優れた薬剤標的となる。このような寄生適応現象の基礎研究は時に大きな波及効果を与えることがある。
最近私達は抗マラリア薬として開発中の5-アミノレブリン酸(5-ALA)が試験管の中で新型コロナウイルスの増殖を完全に抑制することを見出した。人体の治療と後遺症への効果に関する特定臨床研究を開始し、すでに被験者のエントリーは終了し結果の解析中である。「なぜマラリアの薬が新型コロナウイルスの増殖を抑制するのか?」の問題を解くのは基礎生命科学の役割であり、そこからさらに新しい発見と次のパンデミックに備える戦略が期待される。



恩賜賞・日本学士院賞受賞者寄稿
『日本現存朝鮮本研究 史部』
富山大学名誉教授 藤本幸夫
古来日本は中国・朝鮮から文物を様々に受容してきたが、その内の大きな一分野が書籍である。六世紀に百済から仏教が伝えられ、特にその頃以降多くの書籍が齎(もたら)されたと考えられる。現在高句麗・百済・新羅の書籍は本国には殆ど伝存しないが、日本には先進国の書籍として尊重され、写本で読み継がれてきた。豊臣秀吉以前は高麗大蔵経以外はほとんど伝わらないが、秀吉の朝鮮侵略時に麾下の武将たちが齎した書籍群、江戸時代対馬の宗家が朝鮮に求請して得た書籍群、更には日韓併合後日本人が蒐集した書籍群が全国に多数散在し、その中には本国で失われた貴重書が誠に多い。筆者は五十余年全国を巡り、図書館や文庫の立ち入り調査をも行い多くの朝鮮本を発掘した。現在日本には朝鮮本を対象とした目録はほとんどなく、多くは中国本や和書に混じって記載されている。朝鮮本は殆どが漢字で書かれているため中国本と誤またれ、また誤謬が多く、出版年も記されていないことが多い。それは朝鮮本には元々出版年が記されないことが多いためで、干支で記されていることもあるが特定は容易ではない。
朝鮮は優れた印刷文化を誇るが、その中でも金属活字印刷は注目されている。金属活字印刷は中国で発明されたが盛行せず、1377年に出版された高麗本が、現存世界最古の金属活字印刷本である。朝鮮の金属活字(銅・鉄が主)印刷は十四世紀末から盛んになるが、種類は三十種以上もあり、極めて精緻で世界に冠たるものである。
筆者の調査は各書に対して二十八項目を調べるという嘗てない詳細なものである。書誌記述によって、その書を眼前に髣髴せしめるのが理想的である。また古書は袋綴じであるが、その折目や巻末に、その版木を刻した刻手の名前が刻されている。それらを丹念且つ網羅的に調べることによって、それを手掛かりに出版地や出版時を特定することができる。
筆者がこの度賞を賜った『日本現存朝鮮本研究 史部』は、五十余年の実地調査の成果を踏まえ、従来にない手法を用いて日本にある歴史関係の朝鮮本を記述したものである。明治初期に流失した大英図書館や台湾故宮博物院図書文献館所蔵本も対象とした。各書の成立経緯を詳述し、ある書が幾度も出版されている場合は各版毎に纏め、古い順から配列した。研究者が各地にある書を調べる場合、本書によれば一度で最古・最善本に辿り着くことができ、従来のように各地を巡る労力と金銭的負担が全く解消した。本書は朝鮮学研究に確固たる基盤を提供する。朝鮮本には中国で失われた書や系統の異なる書が伝わっており、本書は中国学にも貢献する。また日本では十七世紀以降出版が盛んになると、思想・歴史・文学・医学・数学などに亙る朝鮮本を覆刻し、日本の学術に資しており、日本学研究にも重要である。朝鮮本は東アジア文化において重要な位置を占めており、日本文化への貢献も頗る大きい。筆者はこれ迄「集部・史部」を刊行したが、今後「子部・経部・図録篇」を予定している。御指導頂いた方々、作業をお助け下さった全ての方々に感謝申し上げたい。


藤本受賞者
恩賜賞・日本学士院賞受賞者寄稿
「特異点に関する多角的研究」
東京大学名誉教授 石井 志保子
代数多様体ではほとんどの点は滑らかですが、そうでない点もあります。滑らかでない点を特異点と呼びます。図は2次元の代数多様体の例ですが、尖った点が特異点です。図のように2次元の多様体の特異点は目で見ることができますが、我々は3次元空間に生きているので4次元やそれ以上の次元の多様体や特異点を目で見ることはできません。
数学ではこの「滑らか」という感覚的な言葉を客観的な記述に落とし込むことができるので、4次元やそれ以上の次元であっても多様体の滑らかな点とそうでない点(=特異点)を認識することができるのです。
なぜ目に見えないものまで考えるのでしょうか?
できるだけ一般的な記述を求めるのが数学の本来の性質だからです。それが汎用性を担保します。
例えば情報システム、知能ロボット、遺伝子解析などで使われる学習モデルは高い次元の多様体なので研究のためには一般次元の多様体を考える必要があるのです。
筆者の研究対象は一般次元の多様体の特異点です。
なぜ特異点を研究するのでしょうか?
多様体上のすべての点が滑らかであれば色々な議論がうまくいきますが、現実の多様体はそのようなものばかりではありません。登場する特異点を効果的に「制御」し議論を進める必要があります。このために広中平祐氏は、特異点解消定理を確立し、そのおかげで特異点理論が飛躍的に発展しました。また一方で特異点を考慮に入れることで主張が整理されたり、滑らかな点だけの考察ではできなかった証明ができたりすることが1980年頃からよく見られるようになりました。特異点の「積極的活用」です。森重文氏による極小モデル問題の解決もその考え方の上にあります。
筆者が特異点に興味を持ったのはこの「制御」と「積極的活用」が活発に行われ、色々な概念が、特異点を持つ多様体にも拡張され始めた頃でした。そのような中で、それぞれ独自の問題意識で登場したいくつかの特異点に関する概念が同値であることを証明し「制御」と「積極的活用」の両方に多少なりとも貢献できたのは幸運でした。
また、J. F. Nash は1968年に「Nash 問題」と呼ばれる一見不思議な問題を提起しました。特異点解消と弧空間に関連する問題ですが今世紀に入ってもまだ未解決でした。2004年に J. Kollár 氏と筆者はトーリック多様体と呼ばれる特殊な多様体でNash 問題を肯定的に解決し、一般の場合には否定的に解決しました。これにより「制御」と「積極的活用」に加え、「特異点そのものの深化」に貢献することができました。Nash 問題は特異点の研究に弧空間を使うきっかけを与えてくれ、おかげで特異点理論が大きく発展しつつありますが、今後もその道のりにささやかながら貢献したいと思い研究を続けております。


石井受賞者