ニュースレター No.28 会員寄稿
目次
会員寄稿
幻のプログラム
高田康成 会員
英文学・西洋古典学専攻

昭和25年、東京都生まれ。 国際基督教大学教養学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。British Council Scholar (Emmanuel College, Cambridge)。東北大学文学部助教授・東京大学大学院総合文化研究科教授・名古屋外国語大学現代国際学部教授を歴任。現在、東京大学名誉教授、名古屋外国語大学名誉教授、東京大学東アジア藝文書院シニア・フェロー。令和2年より日本学士院会員。
もうかれこれ30年ほど前のことです。一年間の「受け入れ留学生プログラム」を急遽設置せよという大号令が、文科省から大手の国立大学に下りました。受け入れどころか交換留学が当たり前となった今日の状況からすれば、大したことには思えませんが、これが大問題だったのです。というのは、すべて英語で行われることが必須条件とされていたのですが、当時の国立大学にはそのようなものがなかったからです。これに続く混乱の悲喜劇は端折らざるをえませんが、ひとつだけ未だにそのインパクトが冷めやらない事態が起きました。すなわち、英語によるプログラムの編成に際して、現有のスタッフを活用することのみでは立ち行かなかったことです。たった一年間のプログラムですから、授業数はたかが知れているはずなのに、そうだったのです。仕方なく、数名の新任教員と数名の非常勤講師そして同じく数名の「仏の」ヴォランティア専任教員でまかなうという、急場しのぎの有様でした。
かくなる情けない事態に陥った理由は、大きく言って二つあります。まず明らかなのは、大半の教員が英語で授業をした経験がなく、要するにこの労多くして益の少ない新規の企てに消極的であったこと—飴玉がないのですから、これは当然でもあり、この状況は現在も変わっておりません。(文化的言語ではなく、一定の普遍言語を享受する理系の場合も話は変わりません。)しかし文系の場合、なかでも英語に関係する専門教員が、英語による授業に消極的であったことは、一考に値します。英語教育はもとより英文学を筆頭として、広く英語圏の言語文化についての授業は、「受け入れ留学生」の興味を惹くものにはなりにくいという理由からです。しかし考えてみれば、どの大学であれカリキュラムは、学生の大半を占める日本人を対象として組まれているのですから、これは当然のことです。
となりますと本当の問題は、留学生の興味に合うように従来の授業を組み立てなおすことが容易でなかったところにある、と見なければなりません。そしてこの問題は、ひとり英語関連の授業に限られたものではなく、すべての知識や技能の最終受容者は日本人であるという、暗黙の了解の下に編成されてきたカリキュラム一般に妥当します。さらにいえば、明治以来の「近代化」路線において培われてきた心性の遺産となりましょう。そしてその「受容型」の特質は、幾度となく、「自発型」あるいは「発信型」にならねばならないと批判されてきたところでもあります。
もちろん従来の路線を超えようとする試みがないわけではありません。たとえば哲学は「日本哲学」というジャンルを、歴史と文学はそれぞれ「グローバル・ヒストリー」とか「世界文学」を語り始めました。しかしこれらが、「近代化」の過程で生み出された現有の知の編成とどのように関わるのか、必ずしも分明ではありません。逆に、それらが海外からの新たな波に洗われて語られていることが、気になります。
誤解があってはいけませんので申し上げますが、明治にはじまる日本の西洋学は、非西洋の国にあって比肩するもののない高さを誇っております。国際的に活躍している方々も少なくなく、日本近代の誇るべき成果として正しく認識される必要がありましょう。
しかしそのうえで、グローバルに還流しだした「international students」—たとえばミュンヘン・東京・ウィスコンシンといった渡り鳥留学—にとって魅力的で意味のある「新たな知の編成」を構想し、それを具体的な土台として、「近代化の遺産」を活かしながらも超える新たな知の編成を生み出す、これがoverdueの課題ではないでしょうか。その際、基軸が日本であることはもちろんですが、安易な「日本文化ユニーク論」の陥穽にはまらないためにも、「東アジア」という大枠が前提となりましょう。ただし米国の地域研究にいう「East Asian Studies」とは、似て非なるものとならねばなりません。なぜなら、東アジアの文化的基層である中国の伝統は、日本文化が永く身を以て関わってきたところですし、西洋文化の伝統も、近代日本が、駆け足ではありましたが、等しく身を以て取り組んできたわけですから。
とはいえ、かくなる絶好の「地・知の利」を活かさずにやって来たところを見ますと、「伝統の構造化を妨げるもの」と丸山眞男が分析した、あの「習合」という文化的無意識が実は問題なのかもしれません。
会員寄稿
リチウムイオン電池と私
吉野 彰 会員
電気化学専攻

昭和23年、大阪府生まれ。 京都大学工学部石油化学科卒業。旭化成株式会社でリチウムイオン電池の開発に携わる。現在、旭化成(株)名誉フェロー、産業技術総合研究所フェロー兼エネルギー・環境領域ゼロエミッション国際共同研究センター長、名城大学大学院理工学研究科教授・特別栄誉教授、技術研究組合リチウムイオン電池材料評価研究センター理事長、九州大学グリーンテクノロジー研究教育センター訪問教授・栄誉教授。日本国際賞、ノーベル化学賞等を受賞。令和2年より日本学士院会員。
昨年から学士院会員の一員に加えていただきましたが、新型コロナの影響で会員の皆様と直接お会いする機会がなくて残念に思っております。ニュースレターへの投稿という機会をいただきましたので、私の自己紹介も兼ねて企業における研究開発について日頃思っていることを述べたいと思います。
生まれは1948年で大阪の吹田市千里山で幼少期から学生時代までは関西で過ごしました。当時の千里山は自然環境に恵まれた郊外の住宅地でトンボ釣り、カブトムシ取りなど自然の中で遊ぶアウトドア派であったような気がします。そうした中で自然科学に関心を抱き理系の道を選んだと思います。京都大学を修了後1972年に旭化成(株)に入社しました。配属先は神奈川県の川崎市で、以後今日まで神奈川県に住んでおります。入社後、基礎探索研究に携わることになりました。ここから私の企業での研究者生活が始まりました。企業での研究にはゼロから1を生み出す基礎探索研究、商品化に向けた開発研究、事業立ち上げのための事業研究の3つのステージがあります。一つの研究所での人員配置は基礎探索研究に10%、残り90%は開発研究または事業研究というのが通常ではないでしょうか。これは当時も現在も基本的に変わっていないと思います。私の配属された基礎探索研究ではテーマ設定と研究作業は一人で行いました。通常2年ほど研究を続け、狙い通りに進んでいるかどうかをチェックし、さらに研究を続けるか、断念するかを判断します。
私は入社後、ガラス接着性フィルムの開発、無機ポリマー発泡体、可視光線型光触媒の基礎探索研究を手がけましたが、残念ながら何れも失敗に終わりました。次の基礎探索研究テーマを探そうと悶々としていた時に出会ったのが2000年のノーベル化学賞を受賞された白川先生が発見された導電性高分子ポリアセチレンでした。1981年のことです。これがリチウムイオン電池につながっていったのです。ポリアセチレンをテーマに取り上げた訳ですが多くの機能を有するポリアセチレンをどういう用途に結び付けていくかが次の課題でした。ポリアセチレンが有する機能の一つが電気化学的機能で、これは電池材料になることを意味します。早速当時の電池業界の状況を調べていきますと、小型軽量な新型二次電池の研究開発が盛んに行われていましたが、ことごとく商品化にいたっていないこと、その原因が負極材料(金属リチウム)にあったことなどの事実が分かりました。新型二次電池の商品化には新しい負極材料が求められていたのです。幸いポリアセチレンはリチウムイオンのようなカチオンと組みわせると負極材料になることが分かっておりましたので、新型二次電池の負極材料という用途に焦点を絞りました。最終的には負極材料はポリアセチレンから同じπ電子化合物であるカーボン材料に転換し、現在のリチウムイオン電池の正極・負極の基本構成の発明に至りました。1985年のことです。このあたりが基礎探索研究の終了点です。新型二次電池の基礎技術は出来上がりましたが、商品化には数多くの課題を解決していかねばなりません。ここでステージが変わり、開発研究に移行し商品化に向けて動き出しました。約7年間かかり1992年に世の中に出しました。しかし、これでは終わりません。次の事業研究のステージが控えています。事業研究というのは簡単に言いますと新しい製品のマーケットを立ち上げるための研究です。実際にリチウムイオン電池のマーケットが立ち上がっていったのは“Windows95”のリリースの年、1995年からでした。
基礎探索研究からマーケットの立ち上がりまでは約15年かかりましたというのがリチウムイオン電池の開発経緯です。
最後にリチウムイオン電池の技術は3つのノーベル化学賞に支えられているということを述べたいと思います。まずは、最終的に製品化に至った私のリチウムイオン電池の発明です。また、2000年の白川先生のノーベル化学賞については述べたとおりです。実はこのポリアセチレンの発見の背景には1981年にノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生のフロンティア電子軌道論と深く関連しています。共通項はπ電子化合物です。
結論としてリチウムイオン電池の技術は3つのノーベル化学賞に支えられているということ、また38年間の長い年月を要してリチウムイオン電池という製品が育っていったということになります。
近年産官学連携ということが議論になっています。この議論の中でリチウムイオン電池の事例を参考にしていただければと思います。