日本学士院

ニュースレター No.32 文×理対談 田代和生会員×川合眞紀会員

田代和生会員は江戸時代のある銀貨に魅せられ研究を始めました。一方、川合眞紀会員は、学生時代に抱いた基本的な疑問が終生の研究テーマになりました。対談の最後には、女性研究者で生き残るのは野武士のような研究者という話になります。

それぞれの道から研究者を志す

田代:私が高校生の頃は大学に入る女性は多くなかったんですね。ほとんどのクラスメイトは就職するので、研究者になりたいとはこれっぽっちも考えていませんでした。ところが、結婚する前に先生をしていた母が大学へ行ったら?って言うんです。いつまでも同窓会に呼んでくれて楽しいと言うので、先生もいいかなと思いました。でもそれは高校3年生の秋の終わり頃で、全然受験勉強をしていませんでした。そこで、得意だった日本史のある大学を片っ端から探していったら、中央大学が素直な出題をしていたんです。有り難いことに入学が叶い、母の希望する教員への道がひらけました。中央大学では、最初から史料を読むんですね。ある時読んだ新井白石の『折たく柴の記』という自叙伝の中で、貨幣論争のことが書かれていました。それが面白くてもっと調べてみたいと思ったのが、研究者への道の始まりでした。

川合:私は全然違いますよ。私の母も父も大学の物理学の教授だったし祖父も大学の先生だったので、大学に行くことや大学で教えるのは普通のことと思っていました。高校も進学校だったので、大学に行かないという選択肢は全く頭になかったですね。田代さんとは6歳しか違いませんが、多分5~6年で随分と意識改革がされたと思います。好き嫌いは結構はっきりしていたので、高校の授業で生物学はあまり好きになれなかったし、化学も覚えなきゃいけないものがいっぱいあると思っていたのであまり好きになれなかった。一方で数学や物理学は大法則が一個あるとそこから展開できるので枝葉末節を覚える必要がない、すっきりした感じが好きでした。結局化学を選ぶんですが、東大は最初のうちは専門が分かれてないので、自分の専門を選ぶ時間もありちょうどいいかなというくらいのイージーゴーイングです。どんな意志をもって学者になったのですか?って聞かれると本当に困るのですが、人生の生業にするんだって覚悟するのはだいぶ後でした。

—貨幣史に興味を持たれてからはいかがですか?

田代:江戸時代の貨幣は色んな種類があるんです。金・銀・銭だけじゃなくて藩札や私札、商人の間を回る為替や手形などもあるし、幕府も貨幣の金属の質を落としたり良くしたり。このため経済学の理論も必要ですが、歴史学をやっている人間にとってはそれがよく分からない。どうしようかなって思って、貨幣史についての色んな本を読んでいたら、田谷博吉という先生が『近世銀座の研究』という本を出したんです。銀座とは、銀貨幣の鋳造所です。他の本では元禄・宝永の貨幣改鋳の後ろに正徳・享保の改鋳がきますが、その本は正徳の前にまったく知られていない「人参代往古銀(にんじんだいおうこぎん)」という貨幣のことが出てくるんです。この人参はキャロットではなく、朝鮮人参(ジンセング)という高貴薬です。日本は「鎖国時代」にもかかわらず、朝鮮との貿易で良質な銀を輸出して高価な人参を買っていたのですが、あるとき荻原重秀という勘定方の役人が銀貨幣を改悪してしまったのです。すると朝鮮側はこれを受け取ってくれません。丁度そのころ日本の江戸の町は人参ブームにわいていましたが、その人参が入ってこない。そこで朝鮮貿易をやっていた対馬藩が重秀に頼みこんで、国内には一切出ない、朝鮮輸出用だけの良質な貿易銀貨を作ってもらったのです。そんな経済の原則に反する訳の分からない銀を、何故江戸幕府が許可したのかが気になっていました。すると幸いなことに田谷先生が日本銀行に調査に来られるということで、お手伝いをすることになりました。その最中に日銀の方が「人参代往古銀」の本物を持ってきてくれたんです。巡りあわせですよね、完全に。そういうラッキーなことがあってこの銀貨が朝鮮に行ったんだって思ったら、もう貨幣史はどうでも良くなって、銀・人参・対馬に興味が向かいました。対馬藩主の宗家の記録が東京では国立国会図書館、東大史料編纂所、慶應義塾大の3カ所に保管されているというので、通って一生懸命読みました。最初は古文書を読めなかったんですけど、貿易の文書には数字がたくさん出てくる。数字って何とか読めちゃうんです。その辺から段々と古文書が読めるようになりました。それで夢中になって4年生で止めるのは嫌で大学院に行きましたが、でも学者になろうなんてまだその時は思っていない。対馬に行って調査したいと思っただけです。

川合:なんかすごいですね、最初に別のものに出会っていたら、別のことに興味を持っていたかもしれないですよね。探求心の根源って研究者そのものなので、きっと素質がおありだったんでしょう。

田代:夢中になると止められなくなるんです。

川合:それは研究者あるあるですよね。やっぱり面白いからやめられない。私たちの分野でも、何かを知りたくてそれを調べていくとある程度解決するんですけど、解決した先にもっと知りたいものが出てくる。それで先にもう一歩進むともっと分からないものが出てきてそれを知りたくなる。対象はなんであれ、研究するっていう考え方の根底では共通していると感じました。私は3年生になって専門にいくと、探求心旺盛な仲間から洋書の原書を一緒に読みましょうと誘われて、断るのも面倒なので、一緒にやるという具合でした。私は、最小限の努力で最大限の成果を挙げる、もしくはギリギリのところですべて取っていくのがモットーの学生だったので、好奇心にかられてというのはほとんどやってこなかったんです。だから今の学生さんたちのことを言う権利も資格も全くありません。4年生の後半に研究室に配属になって、研究のイロハを初めて学ぶんですけど、与えられたテーマが意外と手間がかかり、やっていくと段々と面白くなって、のめり込みました。1970年代は窒素酸化物による大気汚染の公害が叫ばれている頃で、その窒素酸化物を還元して無害な窒素と水にする画期的な触媒があるので、その触媒反応機構を考えなさい、と。今では都バスの排ガス処理に実際に使われている触媒なんですけど。固体である触媒に気体の窒素酸化物がどういうふうに吸着するか、またアンモニアを使うと窒素酸化物、つまり窒素と酸素からでできているガスが、1気圧でも窒素分子と水になるというのが反応の要です。その化学的な反応のメカニズムを解明するというお題だったんですね。赤外分光法っていう、分子が持つ固有の状態を励起するエネルギーを測定して、そのエネルギー値から分子を同定する手法を使って見ていたら、その反応中に触媒の上に2種類の非常に特徴のある分子吸着種が存在していることが分かりました。そのたまたま見つけた2つの分子種が反応して窒素と水になるという結果を数か月で出せちゃったんですね。それが私の研究者の原点なんですけど、まずは例によって意外とちょろいと思うわけです。ところが先輩たちは厳しい目で見ているので、2つ違う種類のものが固体の表面に吸着しているとしてそれはどうやって反応するんだね、っていうわけ。吸着しているっていうのは、がっちり付いていると皆思っているので、それは出会わないと反応しませんよねって。出会うって何だろうと、少しずつ、自分なりに、基本的な疑問がわいてきました。出会うには吸着していながら触媒の表面で吸着している分子が動けないといけないよね、表面での分子の拡散って何だろうという疑問を持つようになります。でも、その時は早く卒業して大学院行ってなどと思っているので、さっさと論文を書いて、みんなにたたかれながらともかく修正して失敗して、やっていくわけです。議論が激しく行われる研究室だったので、素朴な疑問をぶつけ合いながら議論しました。その時に頭の中に、これなんだろうと思うものが、いくつか植え込まれているんですね。その後大学院に行ってもう少し発展した研究もやるんですけど、その最初の疑問は、実はずっと最後まで頭に残っていて、実際独立した時に「最も興味深い疑問」のリストを書きだしていった中でその最初のものとなりました。私は大学院の博士1年の時に結婚して、2年の時に第1子、ポスドクの1年目で第2子が生まれってことで、そのトレーニングの期間は、子育てと並走で、まあどうにかなるでしょみたいな感じで走っていました。留学もしなかったし、基礎知識を若いうちにちゃんと蓄えてなかったので、結構後になって一生懸命勉強しましたね。田代先生とはずいぶん進み方が違います。文系と理系とかじゃなくて、性格の問題でしょうか?

田代:まあ勉強のやり方のモデルが1つずつあるということじゃないですか。

就職は大変だった

川合:私は、指導教官だった何人かの先生から一緒にやらないかと誘われもせず、もうそろそろ辞めないと食べていく道はないと覚悟した時代もありました。最後の賭けと思ったのが、主人が大阪大学の助教授になって勤め始めた頃です。私はポスドクだったので、どこでも同じだと思って、大阪に行きましたが、ポストが全然ないんです。その時に理化学研究所で研究員の公募が出ました。主人が大阪で、子供も大阪で育ててるんですけど、主人に土下座して、これが最後のチャンスなので行きたいと。主人がどう思ったかはわからないですけどね。でも賛成してくれました。それが一家離散の始まりで、結婚してもう46年になりますが、それ以降一緒に住めていません。こういうのは後進に勧めたくありません。今は夫婦ともに仕事をされているケースが多いと思うので、採用のときは、夫婦帯同じゃなくて対等に、ちゃんと2つポジションを探してあげられるような習慣が、この国にも根付かないかなと思っています。

田代:就職は私もすごい大変でしたね。

川合:やはりそうでしたか。

田代:すーっといかないですよね、やっぱり。大学を卒業した年の秋に結婚して、博士課程に入ったときに子供ができました。

川合:同じくらいの感じですね。

田代:そうですね。でもその頃、修論を書き終わったばかりで面白くて止められないから、子供がいても、とにかく論文を書き続けました。きっと母も責任があると思ったんでしょうね。すごくよく子供の面倒を見てくれました。ちょうど母も夫を亡くした後で、おばあちゃん業に専念しちゃって、それを見抜いた私は夏休みになるとすぐに対馬に行きました。ひたむきにやって、博士論文は博士課程3~4年目くらいから書き始めました。私は、中央大学文学部卒の課程博士第1号だったのです。しかし、その時に指導教授から博士号を取っても中央大学には就職できないと言われました。聞いたら理由がすごいんです。ちょうど大学が学生運動の対応に忙しかった時期で、女性には夜の見回りを頼めないから就職は無理だと言うんですね。そんなことを言われたのはその後も含めて初めてでした。

川合:そんなんだったら見回りするわよってね。

田代:だけど、女性だから見回りできないと言われただけで、研究の内容が悪いって言われたわけではないのだし、博士号もとれたんだからと考え直しました。でも家庭の主婦だけじゃ研究費を取れないし、調査にも行けないので、下働きでもやりますからどこかありますかってある先生にお尋ねしたら、無給で良ければあるとも言われましたね。その頃、慶應の速水融先生(後に学士院会員)にお目にかかり、私の日朝貿易の数量的考察に関する論文を渡したらすごく喜ばれ、作ったばかりの数量経済史研究会で発表してくれと言われました。そういういきさつで速水先生と知り合いになり、速水先生から慶應の経済学部で一般教養のポストの公募があるからと言われて、受けたら幸い採用されました。その後文学部に移りましたので、経済学部の一般教養で10年間、文学部では22年間、全部で32年間慶應におりました。速水先生の恩師で、野村兼太郎という経済史の偉い先生がおられます。その先生が集めた大量の農村史料を保管するため、慶應に古文書室というのを作ったのですが、速水先生はそこを個人用の研究室に使っていたのです。ところが外部から聞きつけた研究者が、時折史料の調査に来られます。速水先生はその史料の出納や閲覧に立ち会うのが苦手で、私がその役を引き受けることになりました。そこで古文書の目録を作らねばと考えましたが、それがものすごい点数です。で、文学部に移ってから、夏休みに学生を2週間拘束して、カードをとらせる作業にとりかかりました。それが終わるまでどこかに行ってはダメだと。古文書を読めるように教育して、ちゃんとバイト代まで払いました。そのうち大学院生に学部の学生を教える先生役をさせたら、教わる方も教える方もすごく喜びました。この字なんて読むのって。あ、これはこうだよって教えてあげると、何か自分が偉くなったような感じになって、皆すごく乗ってしまって、あっという間の2週間です。慶應の教員生活は、学生さんといつも合宿しているようで、楽しかったですね。

川合:今の話を聞いていると学問の方向も、先生が方向づけると思うんですけど、学生さんたちと一緒に築いていくっていう感じがすごく楽しそう。

田代:一緒に築くっていうか、むしろ、研究は放任状態、勝手に自分でテーマを見つけていらっしゃいっていう感じ。自分で興味を持たないと、最後まで続かないんですね。ただし史料で裏付けがとれないんだったら駄目だよと、いつも言っています。検証して、理論づけできて、初めて歴史のなかにそれが定着するんだからって。

実験の研究には元手が必要

川合:アルバイト代は、どういう財源ですか?

田代:まず古文書室の古文書は大学の財産なんだから、大学から資金を出していただきました。慶應は卒業生がこぞって寄附をする大学で、いくつものファンドがあるんです。社中一丸といってね。結束力がすごいんです。すばらしい精神です。

川合:慶應義塾大学の中の予算で大体研究はできる?

田代:できます。研究費も結構つきます。科研費も取りましたが、私の経験ではその頃人文系は年に100万か200万円くらいあればできちゃうんですね。新しいパソコンや撮影機材を買うとか。現地に行って調査・収集して、学生さんも一緒に行ってもらってバイト代払っても、それほど巨額なお金は必要ないです。ですから少額の科研費Cには、対馬の調査ではだいぶお世話になりましたね。

川合:私たちは実験の研究者なのでやっぱり元手が必要です。最低限の測定器を作るために1000~2000万円くらいかかる。理研の最初の2年間くらいは民間も含めて40~50万円のファンドを片っ端から集め、どうにか小さな測定器をつくるところまで持っていきました。そうしたら、東京工業大学が初めての民間の寄付講座を作るので、応募しないかって声をかけられて。まあ、まさかこんなペーペーのお姉ちゃんをとってくれるとは思わないので、まあご協力、枯れ木も山のにぎわいと思って出したら、君に決まったって言うんですよ。後々聞いてみると、話題性を追求してたのね、向こうは。若い女の子っていうのが1つの看板だった。研究室運営に3000万円付き、自分の給料も助手の給料も全部そこから出すんですけど、全部使っても1000万円くらいは残るので、夢のような話でした。期間は3年間だったんですけど、ここに賭けないと一歩先にはいけないと思いました。さらにラッキーだったのは、ちょうど、高温超伝導体が見つかった頃で、所属していた工業材料研究所が1億円という大きな予算を取ったところだったんです。それで色々な計画があって、私が必要としていた真空容器の中で薄膜形状の材料を作り、その構造や物性を測る装置が立てられそうでした。それがうまく行って、私を呼んでくださった先生たちが、その装置を欲しいって言い出して。私たちが始めたことが隣の研究室にもプラスになって、その当時の研究所の中の一大グループの一翼を担うようになりました。そうしたら、理研では、彼女を呼び戻してちゃんと研究室を持たせようという風潮になっていて、主任研究員として戻りました。理研は今でもそうなんですけど、非常に自由闊達な雰囲気で、一旦研究室を任されたら何をやってもいいんです。その代わりそんなにお金を出してくれないので、実力で外から取ってくることになる。えっ?と思ったんだけど今度は定年までいられるポジションで、研究室も自分の好きなように動かせるので、そこで、はて何をやろうかって考えたときに、学生時代以来持っていた基本的な疑問は、終生を賭けるテーマと考えていたので、基礎的な研究だけをやることに切り替えました。そしてそれが当たりました。青臭いんですけどね、夜が明けるくらいまで皆で議論し続ける。それが私の成功した研究タイトルの始まりです。ただ観測する機器があまり安くは手に入らないし、段々人数が増えたので、途中から東大のポジションももらいました。理研の研究室では財源の確保は主宰者である私の最大のミッションになるので、研究費をどうやって集めてくるか随分考えました。テーマを考えるのは面白くもあるんだけど苦痛でもあって、終わる時にちょっとホッとしました。

田代:中小企業の社長さんみたいな。

川合:そうですね、でもお陰で固体の表面に吸着している一つの分子の分光研究という最後のテーマは海外からも呼んでもらえるようになって、チームプレイではあるんですけど非常に良い仕事ができたと思っています。2017年に東大を退職してからは研究室は持たずに研究所の運営の仕事だけをやっているので、自分自身が関わる研究はもう6年くらい前に終わりました。国際会議に呼ばれても、レビューはできるんだけど自分で新しいアイテムを提供できないので段々行きづらくなってきています。

田代和生会員
昭和21年北海道生まれ。中央大学文学部国史学専攻卒業。慶應義塾大学名誉教授。平成26年より日本学士院会員。対馬藩主の宗家に伝来した宗家文書をもとに、多年江戸時代の日本と朝鮮の関係について研究している。

人文は大学を辞めてから自分の研究ができる

田代:そこが人文と自然科学の違いかなって思います。人文は大学を辞めてから自分の研究ができるんですよ。今まで集めた史料を全部自分の手元に置いておけば、どんどん研究ができる。今まで読み飛ばしていたこと、時間がかかると思ってできなかったことがこの歳になってできます。最近はまったく新しい史料を読んで、2年に1冊ずつくらい本を書いていますので、すごく充実しています。

川合:実験系の人は常に自分でデータを作っていくのが仕事なので退職したらできないですね。理論研究をやっている人たちは文系の先生と似たところがあって、もう少し続けられると思います。だけど、私のように計測化学の場合は、実験ツールを手放すと、そこから先に行けません。ヒストリーや、どの時点でどういうものが発見されたというような探索系の仕事はまだできると思うんですけど、自然と向き合うことの楽しさという意味では、新しい実験データは出せないので、最先端からは離れていきます。最近は定年後でも、科研費を申請できますが、でも70歳ぐらいまでかな・・・。私学でもう少し長くできる所もあるんですけど、実験は一人だけで全部できる作業ではないので。

田代:人文のほうは、結構個人技なんですね。特に歴史学は、自分で城を作る感じです。人に言われたテーマって大体ダメですね。自分で見つけたテーマで、自分の鑑識力で、色んな所に調査に行って、史料を集めて自分で理論化して、発表していく。検証が正しければ、どんな権威のある大先生でも、大学院の学生が打ち負かせるんですね。私は学会で発表する度に、皆をあっと驚かしてやろうという気持ちがありました。

川合:その意味では同じです。二番煎じでは伸びないですね。名を残す仕事とは、先陣を切ってしかも価値のあることをやらないとダメで、しょっちゅう起きることではありません。何か一つでも誰も気が付かなかった考え方、誰も見ていない世界、誰も見ていない解釈を残せるかというのは、実験科学者としてはポイントです。研究者としては小さくてもいいから、そういう仕事を残したいというモチベーションがあるわけですね。ただ、そのためには、ある程度のチームが必要です。何人かで装置をシェアして、動かして。それは学生であったり、同僚であったり、先輩だったりするのかもしれません。

田代:面白いですね。

川合:私は研究者を生業とすると言うんですが、いい商売だと思っています。誰に指示されることもなく、自分でこれは面白いと思ったものを、とことんやり続けられるわけですね。その結果新しいものの見方とか、新しい科学の材料みたいなものを提示することができる。それだけで世の中が動くとは思わないけど、1つの要素にはなるので、やりがいのある仕事だと思います。

川合眞紀会員
昭和27年東京都生まれ。東京大学理学部化学科卒業。東京大学名誉教授、自然科学研究機構長。令和3年より日本学士院会員。固体表面に吸着した分子に関して、走査トンネル顕微鏡を用いた精緻な分光学的研究を行い、触媒化学分野や物質材料分野に貢献した。

野武士のごとく

川合:私はポスドクの期間を除くと研究室主宰者以外のポジションになったことがなくて、誰も師と仰げなかったんですね。だから、引いてもらって育てられた人たちが羨ましいなと思いつつも、そうじゃなかったから生き延びられたのかなとも思います。東京大学を出ているんだけど、正統な研究者トレーニングを受けずに、自己流にやってきた成り上り者みたいな研究者なの。よく生き延びたなと思います。

田代:女性研究者って、割と成り上がりっていうか野武士のごとくやる人が多いんですよね。最後生き残るのは、先生に上手に指導してもらって、順当にいく人よりも、むしろそこから離れて野武士のごとく、自己流でやってる人の方です。

川合:あきらめの悪い人だよね。

田代:鍛えられるんですよ。少しずつ強くなって、打たれ強くなる。人文系の女子で生き残るのは、野武士のような人と感じたのは、故中根千枝会員に接したときです。中根先生には、学士院の例会でお会いした時に、色々な話を聞かせていただきました。どうやって東大で、女性で初めて助手に残れたのかとか。東大に初めて女子トイレ作ったの先生でしょって言ったら、そうですよって仰っていました。

川合:会員の中西準子さんも実は私の先輩なんですよ。

田代:え、同じ指導教官?

川合:中西さんは、私の指導教官(田丸謙二博士)の横浜国立大学時代、私は東大時代の教え子ですが、研究室の大同窓会みたいなところでは、何度もお会いしていました。敢えて逆境に飛び込んで自分の道を探すなど、一人一人のお話を聞いていくとやっぱり共通していますよね。諦めずに続けて、興味を持ってやっている研究そのものが捨てがたく楽しく、自分の人生から切り離せないっていうそういうモチベーションは強いような気がしますね。世間体を気にしたり、遠慮しちゃったりする方は途中で辞めている人が多いです。

田代:我々は割とラッキーだったのかもしれない。私はもうラッキーの連続です。

川合:私も何回かもう続かないと思った時がありましたが、必ず誰かが手を差し伸べてくれ、ここまで来ました。

—今日はありがとうございました。